人生をやわらかくする 禅の言葉
 日 々 是 好 日  無 功 徳
 看 却 下  歩 々 是 道 場
 平 常 心  柳 緑 花 紅
 
  その1  
日々是好日
 最近よく耳にする言葉であります。文字を直訳すれば、「毎日がよい日でありますように、毎日が幸せでありますように」となります。しごく簡単に受けとられやすい言葉でありますが、そんなに都合のよい言葉ではありません。
 中国の唐の時代に書かれた『碧巌録(へきがんろく)』という本の六番目に出てくる話に、
 「雲門垂語(うんもんすいご)して云く、十五日已前(いぜん)は汝に問わず、十五日已後、一句を道(い)い将(も)ち来たれ、自ら代わって云く、日々是好日」
 とあります。過ぎ去った過去を振り返って見るのではなく、これから先、どのような生き方をし、どのような心持ちで生活したらよいのかを、雲門禅師は問うて「日々是好日」と言われているのです。
 今年の夏もことのほか暑い日が続きました。こう暑いと暑さがたいへん憎らしく、真冬の寒さが恋しくなります。しかし、真冬になって毎日、雪の降る寒い日が続きますと、夏が恋しく、夏の暑さぐらい堪えしのげると思ってしまいます。はてさて何が暑いのか、何が寒いのか…。私たちは夏の暑さも冬の寒さも定まったものとして受けとっているだけのことではないのでしょうか。日照りが続くと雨が待ち遠しく、雨ともなればその雨は恵みの雨と変わり、梅雨の長雨はとても嫌なものでありましょう。それぞれ雨であるが、こうも受けとり方が違ってくるのです。暑いも寒いも一度に捨ててしまえと、雲門禅師は言われているのであります。
 私は以前、仏教情報センターという所に籍を置いていました。このセンターは三十年ほど前に設立され、各宗派の僧侶が集まり、東京を中心に活動をしている。おもな仕事は「仏教テレフォン相談」でした。開設当時は法事の相談、たとえば七年忌を迎えるのにどのような準備をするのか、お布施はどのくらい包むものか、また、お墓にまつわる諸問題が多く寄せられました。近年はそれ以外に人生問題が多くなり、私たちが経験すらしたことのない相談ごとを問われ、慌てることさえありました。
花はひとが見ていようと、見ていまいと、一生懸命に咲いている
(撮影:山本文渓)

 ある年、大学三年生の学生よりこんな相談が寄せられました。「来年就職試験を受けるのですが、どうも勉強に手がつかない。どうしたらよいのでしょうか」−聞いてみますと、入社試験を受け、入社しても自分はせいぜい課長止まりだろう、そして定年を迎えて退社する。自分の人生はお先が見えている。それを思うと、どうしても勉強ができない」と言う。
 それなら「あなたは今、何をしなければいけないのですか」と問うと、しばらく時間をおいて、「やっぱり入社試験の勉強かな…」と答えが返ってきた。つまり彼はまだ来ていない未来のことに対してもう悲観している」−それでは、未来に心がいってしまい、今を生きていない。私が問うたことによって、やっと未来にいっていた心が、だんだん現在に戻ってきたのです。
 今を生きるということは、今、与えられている仕事、彼にすれば就職試験に対する勉強。これが今を生きることであり、この毎日が「日々是好日」ということになります。「今それをしなければ、自分の描いているような暗い未来になってしまう。しかし今、現時点の物事に打ち込んで勉強しておれば、明るい未来になるのでは…」−このように私は彼にアドバイスをしました。
 私の好きな和歌に、「この秋は 雨か嵐か知らねども 今日の務めに田草とるなり」(二宮尊徳)というのがあります。まだきていない秋の天候を心配するより、今日なすべきこと、今なすべきことに全力を尽くしていくことこそ、自分に与えられた今日の務めなのであります。
 今から三十年ほど前に、京都の南禅寺の管長をされていた柴山全慶老師という方がおられました。老師はたいへん花が好きで、とくに椿はご自分の庭に百本以上も植えられていました。移植から剪定まですべてご自分でなされました。
日々是好日 −「今・ここ・わたし」を生きることが大切である
(撮影:山本文渓)

 ある日、老師の留守中に本山の方が来られて、椿の花を「一枝ぐらいならわからないだろうから」と言って切って行かれました。その日の夕方、例によって庭を散歩された老師が「今日はだれか来られたのかな」と聞かれ、そばにいた私は冷や汗の出る思いをしたことがありました。夏には朝夕の水やりがたいへんでありましたが、今ではよい思い出となっています。
 老師のつくられた詩に「花語らず」というのがあります。

  花は黙って咲き 黙って散って行く
  そうして再び枝に帰らない
  けれども その一時一処に
  この世のすべてを託している
  一輪の花の声であり 一枝の花の真
  である
  限りない生命のよろこびが
  悔いなくそこに輝いている

 花を愛した老師らしく、花をよく観、いとしまれる姿が目に浮かぶ詩であります。一方、花はその美しさを誇示しようとして咲いているのではありません。人間が見てしたものであります。
 老師のこの詩の中に、「その一時一処に この世のすべてを託している」とあります。松原泰道師は、「今・ここ・わたし」と表現されています。今・ここにこの世のすべてを託して花は咲いているのです。一生懸命咲いている姿に私たちは感銘し、そして見習うべき姿だと思われるのです。
 実は、私は文章を書くことはたいへん苦手であります。けれども今回、書くチャンスを与えてくれたことに感謝し、「今・ここ・わたし」でしかできない、今・この時点に自分をおいて今回、勉強させていただきました。

※注:雲門禅師
 864年?〜949年。中国五代の禅僧。
浙江省蘇州の生まれ。中国の禅宗の一つ雲門宗の祖。
青原行思系統の禅を学び、 広東省にある雲門山で修行して一宗を建てた。
著書に『雲門匡真禅師広録』がある。
 
人生をやわらかくする 禅の言葉
  その1  
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