人生をやわらかくする 禅の言葉
 日 々 是 好 日  無 功 徳
 看 却 下  歩 々 是 道 場
 平 常 心  柳 緑 花 紅
 
第4回  
無功徳
  禅宗(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗を総称していう)の寺院では正月になりますと、床の間に達磨さんの画の軸を掛け、新年をお祝いいたします。
 達磨さんというと、選挙になると登場し、「七転び八起き」とか「起きあがりこぼし」などといわれる縁起ものです。また子供たちには「ダルマさんが転んだ」「ダルマさんダルマさんにらめっこしましょ」などと言われて、大変親しみがあります。
 この達磨さんは、禅宗の初祖といわれています。今から1700年ほど前、インドで生まれました。その後、インドより中国へ来てはじめて禅を広めました。中国へ来たときに、梁の武帝と会います。
 梁の武帝は、みずから官服の上に袈裟を掛けてお経の講釈までし、仏心天子(ぶっしんてんし)とまであだ名された方です。たいへん熱心な仏教信仰をもつ皇帝であります。武帝は達磨さんを宮廷に迎え入れ、鄭重に達磨さんをもてなしました。そして仏教について質問されました。
 
自我が煩悩を招く − こだわりを捨て去った無心の境地を求めた達磨大師
(撮影:山本文渓)
達磨大師
「私は即位以来たくさんの寺を建て、何万という僧侶を育てて、仏教を興隆に尽くしました。経典の研究をし、みずから経典の講義までいたしております。いったい、私の功徳は、いかがなものでございましょうか」
 達磨さんは即座に答えます「無功徳」(功徳なぞ塵ほどもないわい)と。
 武帝は心の中では間違いなく「大いなる功徳がありますよ」という答えを期待していたことでしょう。それをあっけなく達磨さんに「無功徳」と言われてしまったのです。続いて、梁の武帝は、
 「では、仏法の根本義、一番大切なところは?」と質問します。自分の教学の広いところをみせたかったのです。
 すると達磨さんは、
 「廓然無聖(かくねんむしょう)」(カラッとして、秋晴れの空のように、雲一つない)
 「それならば、私に対しているのはだれなのか?」と武帝が聞くと、
 「不識」(知らんわい)
 まったくもって会話がかみ合いません。達磨さんが意地悪で言っているよにもみえます。達磨さんは、まだここでは禅を広めるのに機が熟してないと思い、揚子江を渡って魏の国へ行ってしまいます。
 達磨さんは、いったい何を言いたかったのでしょうか。
 たとえば、素晴らしい仏様の前に座ったとしましょう。ゆったりとした心境になり、思わず手を合わせたくなるでしょう。その時の心はどんな状態でしょうか?スカッと晴れ渡った秋空のようで、仏様とひとつになったような心境だと思います。これを「廓然無聖」といいます。
 お布施を例にとりますと、一般的には、、お寺へお包みする金銭と考えるでしょう。しかし元来は布を施すのです。2年ほど前、チベットを旅行したときに、お寺で信者さんがお坊さんに白い布を施していました。「あー、これがお布施だ」と思いました。
 私たちはお参りをするとどうしても御利益を求めてしまいます。受験シーズンになりますと、どうか希望する大学・高校に受かりますように、またよい会社に入れますようにと、神社やお寺に合格祈願をします。ワラにもすがる思いの祈願でしょうから当然のことかもしれません。しかし、そこにある合格したいという自我が煩悩を招くのです。それを戒めているのが仏教なのです。
 昨年中国へ行ったときに、あるお寺で修行僧が習字をしている部屋へ通されました。静かにに書いておられるので私たちも息を殺して見ておりましたら、師匠さんらしき方が「今、彼らは、無心になって字を書いております」と言われました。そんなに広くない部屋ですから、今言われた言葉は彼らにも聞こえているはずです。わざわざそんなことを言わなくてもいいのに…とその時思いました。
 また、私事で恐縮ですが、修行のために京都の道場へ入ったばかりのときのことです。先輩から「陰徳(いんとく)」を積むようにということを聞かされました。
掃除をする姿をだれかに見てほしい、ほめてもらいたい。と思ったとたんに、陰徳は消えてしまう(南禅寺専門道場)
(撮影:山本文渓)
南禅寺専門道場
 道場では、ひと月に14日と月末に午後から外出ができるのです。この日ははじめての外出でもあったので、早い時刻に帰ってきました。すると、禅堂の周りに枯れ葉が落ちていたのです。気になった私は、箒を取り出して掃除を始めました。
 「今朝も掃いたのになー」と心に思いながら掃いていたのですが、落ち葉も半ば片づいた頃、ふと、「誰か帰って来ないかなー。先輩でも見ていないかなー」と思ってしまいました。禅堂の周りがすっかりきれいになったときに、結局、だれも帰ってくる人はいなかったのです。がっかりした思いが心に残りました。
 ここで、だれが見ていようといまいと掃除をして気持ちがよかったなー、で止めておけば立派な陰徳になるのです。自分のものになるのです。それが、だれかに見てほしい、ほめてもらいたい、と思ったとたんに、陰徳は消えてしまうのです。
 つまり、無心になって字を書いていて、「今、無心です」と言った途端に、無心は消えてしまうのです。梁の武帝も功徳があるのか、と言った途端に武帝の功徳は消えてしまったのです。
 損得や理屈ではなく、まさに無心の行為なのです。仏様に手を合わせると、何とも言えないすがすがしい、洗われた心が沸いてくるのです。
 達磨さんは、武帝のこだわりを断ち切ろうとしました。功徳を積んだという邪心、ほめてもらいたい、見てほしいという邪心、そんなことへのこだわりを捨て去った境地が無心です。そこを達磨さんは求めているのでしょう。
 
人生をやわらかくする 禅の言葉
第4回  
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