人生をやわらかくする 禅の言葉
 日 々 是 好 日  無 功 徳
 看 却 下  歩 々 是 道 場
 平 常 心  柳 緑 花 紅
 
第5回  
歩々是道場
 仏教経典のひとつに『維摩経(ゆいまきょう)』があります。その中に「直心是道場」の語があります。自分の心の内側をみたとき、それは「直心」となり、外の風景をみたとき「歩々」という語になるのですから、これも「歩々是道場」と同義語になります。
 維摩経に光厳童子(童子と言っても子供ではなく、修行を志す人を言います)という菩薩が維摩居士(一般人で仏教の奥義を極めた人)に問う場面があります。
 光厳童子が、喧騒な城下の街中を出て、閑静な修行に適した場所を求めようとしていたとき、向こうから城下に入ろうとする維摩居士に出会ったのです。
 光厳童子は「あなたはどこから来られたのですか」と尋ねました。
 すると、維摩居士は「道場より来ました」と答えました。
 道場というのは修行をする場所のことです。しかし、維摩居士は明らかに道場とは反対の方向から来たため、光厳童子は不思議に思いました。
 「えっ、道場ですって? それはどこにあるのですか?」
 維摩居士が答えた「道場より来ました」が、「直心是道場」でした。
 道場とは、建物や形態のことではなく、心のあり方を問題にしています。まっすぐで素直な心、そして自己を偽らないその心が道場を意味しているのです。
 続けて、「虚仮(こけ)無きが故に」と維摩居士は言います。
 私たちの生活には嘘があってはいけません。道場は虚偽のないところであります。維摩居士の言わんとする素直な心にこそ偽りがない道場があり、それが光厳童子の「道場は建物である」という固定概念を打ち破る言葉となったのです。
寺や建物がなくても、心が直心であれば、そこが「道場」になる(兵庫県のとあるお寺にて)
(撮影:山本文渓)
寺や建物がなくても、心が直心であれば、そこが「道場」になる(兵庫県のとあるお寺にて)
 「歩々是道場」は寺や建物がなくても街を歩いていても心が直心であれば、そこが「道場」になります。私たちが、あまりに当たり前すぎて見過ごしてしまう人生の一歩一歩にこそ、大切なものが隠されていることを知らなければならないと思います。
 私たちがどんな場所にいても大切なのは、心のあり方なのであります。道場とは場所ではなくて、個人の素直な心にこそあることを自覚しなければならないのです。
 私のお寺は臨済宗大徳寺派に属しており、本山は京都にあります。大徳寺の御開山様は大燈国師であります。修行を終え、悟りを開かれ、師匠の大應国師から許しが出てからは、京都へ出て五条大橋辺りの乞食仲間に身を投じ、托鉢、行乞(ぎょうこつ)、そして坐禅、いわゆる悟り後の修行をされたのであります。その頃の歌に、

  「坐禅せば四条五条の橋の上 往き来の人を深山木(みやまぎ)に見て」

とあります。現在の四条や五条通りも京都の繁華街で、車や人がたくさん行き来しております。大燈国師の時代も賑わっていたことと思います。そんな街の中で坐禅しておりましても、心の中は深山幽谷だというのです。ですから、修行は決して深山幽谷等と静閑清浄な場所だけとは限らない。
 昨年の11月号に「看脚下」を書きました。ちょっと思い出してください。師匠が弟子3人を連れて夜、歩いておりましたら、突然風が吹いてきて持っていた行灯のロウソクが消えてしまいました。そのとき師匠が弟子に対して「何か言ってみよ」と言われたのです。すると、弟子の1人が「看脚下」と言いました。
 これも「歩々是道場」です。弟子は漠然と歩いていたのではありません。素直な心、無心の心で歩いていたので師匠の問いに対して、サッと返答ができたのです。よけいなことを考えていたのでは咄嗟に返答はできなかったでしょう。
 「看脚下」と答えたのが、圓悟克勤(えんごこくごん)と言う方で、後になって『碧巌録(へきがんろく)』という本を書いております。その中の四十四則にこんな話があります。
街中の雑踏であれ、満員電車の中であれ、「道場ならざるところなし」である(ローマのスペイン広場にて)
(撮影:山本文渓)
ローマのスペイン広場
 帰宗(きす)和尚さんが、弟子に対して、「今日の作業は何にかな」と尋ねますと、「今日は石臼をひくのでございます」と答えます。すると、帰宗和尚は「石は引っ張ってもいいがなあ、真ん中の心棒は引くなよ」と言われました。
 お互いの心も、時勢により相手により動いていかなければなりませんが、中心に動かない物が1つなければいけないぞ、と帰宗和尚は言われます。たとえば良く出来たコマを思い浮かべてください。高速で回転していても軸がぶれません。心棒は回転しているのですが、止まっているかのように見えます。コマのほうに図柄でもあれば回転していることがよくわかります。心棒を
私たちの心に当てはめてみましょう。
 坐禅をしているとき、何も頭に浮かばない状態を「無」とか「無心」と言います。
このような状態を、江戸時代中期に活躍された至道無難禅師はこう詠んでいます。
「生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき」
 つまり、私たちが坐禅をしているときは生きているが、まるで死んでいるかのように頭も空っぽになっている。コマの心棒のようです。そしてコマは回っている。至道無難禅師は、「思いのままにするわざぞよき」──。自由に振る舞えるよ、と詠んでいます。コマは自由に回っているのです。
 このように、私たちの心が無心になり、素直であれば、街中の雑踏であれ、満員電車の中であれ、「道場ならざるところなし」なのであります。
 
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第5回  
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