人生をやわらかくする 禅の言葉
 日 々 是 好 日  無 功 徳
 看 却 下  歩 々 是 道 場
 平 常 心  柳 緑 花 紅
 
第3回  
平常心
 平成21年の2月に東京国立博物館で「妙心寺展」がおこなわれました。
 臨済宗妙心寺派の本山・妙心寺は京都にあります。妙心寺の開山・関山慧玄禅師の650年遠忌がおこなわれますので、それに合わせて妙心寺の禅文化を彩る名宝を紹介する展覧会でした。
 そのなかで目に入ったのは、「平常道(びょうじょうどう)」と大きく書かれた墨跡です。これは江戸時代中期に活躍された至道無難禅師の書であります。仮名で書かれた書が多く残されていますが、漢字もまたすばらしい力強い書が残されています。
 平常心も平常道も同じ意味合いで使われています。これは中国・唐の時代にありました『無門関』という書物の十九則に「平常心是道」という話があります。
 趙州和尚(897年没)がまだ修行中の頃、師匠の南泉和尚(834年没)に、「如何なるか是れ道」と尋ねますと、南泉は「平常心是道」と答えました。
 「如何なるか是れ道」とは、道とは何でしょうか。または禅とは何でしょうか。悟りの心とは何でしょうか。という質問であります。すると、師匠の南泉和尚は、平常の心がそのままで道、悟りの心でありますよ、と答えているのです。
 取り間違えますと、平常の心だから、我々が朝起きて食事をして会社へ出かけ、仕事が終わって帰宅し食事をして寝てしまう。または酔っぱらって帰宅するということもあるでしょう。そういう平常の心がそのままが「平常心」であろうか。それが禅であろうかと言われると首をかしげざるをえません。
 平常と平生とは少し異なります。よく高校野球の決勝戦を迎えたときに、両校の監督にインタビューをしますと、「平生心」で臨みます。と答える方が多くおられます。
普段練習をしているそのままの心で決勝戦に向かうというのでしょう。
よく調えた自分にこそ、誠に得難い頼るべきところがある
(撮影:山本文渓)
平常道
 仏陀・釈尊は、『法句経』というお経のなかでこう言われております。

 おのれこそ おのれのよるべ
 おのれを措(お)きて 誰に寄る辺ぞ
 よく調(ととの)えし おのれにこそ
 まことえがたき よるべをぞ獲ん

 この『法句経』というお経は、東南アジアの仏教国で読まれているお経で、終戦直後に東京の神田寺におられた友松円諦師が、NHKのラジオを通じて放送されて一躍有名になったお経です。このように短い言葉が423句集まって出来ておりますのが『法句経』であります。
 意訳しますと「自分こそ一番頼るべき所であるのに、なぜ自分を措いて他人に頼ろうとするのか、よく調えた自分にこそ、誠に得難い頼るべきところがあるのである」となります。自分を調えないから他人に頼ろうとするのであると言われるのです。
 馬を調えるのは調教ですが、我々の心を調えるのは調御(ちょうぎょ)です。ですから、お釈迦様もまず自分を調えなさいと言われるのです。その調えられた心で日常を暮らすことを平常心で暮らすことであります。
 では、我々の心を調御するのには何があるでしょうか。まず坐禅があります。坐禅によって心を調えるのが一番でしょう。最近、私のお寺の坐禅会は若い方が大変多く来られます。何を求めて来られるのかはわかりませんが、一度座ってみたかった、と思われるのが大方のようです。
 しかし、長続きがしません。なかには続ける方が出てきますが、やはり足が痛いと言われて、一度や二度で辞められてしまいます。なかには十年も続けて来られている方もおられます。すぐに辞められても、また気がついて座ってみようかと思われることもあるでしょうから、初めての方には座り方の説明をしております。
 その他には、「道」とつく日本古来の文化になっている、茶道、華道、香道、書道、またスポーツでは、柔道、剣道、合気道、弓道などなどありますが、これらは道とつくからにはこれらを通して心を調御するから道と着いているのです。ただ勝てばよいというならば柔道にはならないと思います。
柔術でしょう。ただお茶を点てればよいというのなら茶道とはいわないと思います。
 茶道にはお手前といって、お茶を点たてる順番があります。初心の内はいちいちお茶を点てる順番を頭に描きながら点てることです。そこで5年や10年も練習してくると、いちいち頭にお手前の順番を描かなくてもお茶が点てられるようになる。無心の状態でお茶が点てられる。つまりお茶と自分が一つになった状態です。ここまできて初めて茶道といえるのではないでしょうか。
無心でお茶を点てることが心を調御する (撮影:山本文渓)
無心でお茶を点てる
 また、書道もうまく書こうと思う心があってはそれが邪念になります。筆と自分が一つにならなくてはいけないのです。そこまで無心にならなくてはいけないのです。
 江戸時代中期に俳人・松尾芭蕉翁がおられました。江戸・深川の芭蕉庵におられるときはいつも近くの臨川庵におられた仏頂和尚様を訪ねて坐禅をされておられました。ある朝、芭蕉翁の足音が澄んでいるとみた和尚は、芭蕉翁に問答を仕掛けました。
 「今朝の状態はどうか」と和尚。すると芭蕉翁は「庭の苔の色が目にしみ入ります」と応じる。すると和尚は「青い苔の生まれる前はどうか」と問う。これは「過去から現在、未来にかけて変わらない真実は何か」を聞いています。すると、芭蕉翁は「蛙とびこむ水の音」と答えました。去年もドボンでしょう、今年もドボンでしょう、来年もドボンでしょう。100年前もそうでしょう。過去から現在、未来に掛けて変わらない真実とは、芭蕉翁にとっては「ドボン」なのです。蛙と芭蕉は一つになっております。ですから蛙が飛び込んだのではなく、芭蕉が飛び込んでいるのです。
 そこで、仏頂和尚は芭蕉の修行が大部出来ているということで許されたといわれています。
 その後、芭蕉は門弟のところへ帰って、朝の出来事を話しました。「蛙とび込む水の音」では俳句になりませんので、上の句を皆で考えようと門弟に声を掛けましたが、心に叶う上の句がなかったので、みずから「古池や」としたそうです。
 このように坐禅をすることによって、芭蕉翁は自然と一つになれたのです。一つになることによって自然の心がわかり俳句が詠めるのです。この心を得るのに坐禅があり、その他には「道」とつくものを体験して自分のものにすることが大事なのです。
 仕事の面でどう生かすかは難しいところですが、坐禅をしたり、道とつくものを体験することによって、それが仕事に活かされてくれば無上の喜びでしょう。
 
人生をやわらかくする 禅の言葉
第3回  
Copyright(C) 2003 Sanritsusyoukai all rights reserved.