人生をやわらかくする 禅の言葉
 日 々 是 好 日  無 功 徳
 看 却 下  歩 々 是 道 場
 平 常 心  柳 緑 花 紅
 
第6回    
柳緑花紅
 春になりますと、いっせいに木々が芽吹き出し、その小さな緑に目を奪われます。
また、花壇には色とりどりに花が咲き出します。このような鮮やかな春の眺めの姿がそのまま悟りの境地であると驚いたのが、11世紀中国の宋の詩人蘇東坡(そとうば)です。
 蘇東坡は息を飲んで言いました、「柳は緑、花は紅、真面目」と。当たり前のことを、ありがたい事実と実感できるには心の修練が必要になります。私たちは目の前にある事実をなかなかそのまま受けとることができないからです。
 2年ほど前、二十歳の息子さんを水の事故で亡くした親御さんと出会いました。その親御さんにしてみれば、目の前に突きつけられた人生を認めることは辛いものがあります。子供を失った親でないとわからない悲しみがここにあります。
 仏陀釈尊が在世当時、子供を失った親がおりました。彼女は何とかして我が子の息を吹き返してほしいと、その屍を抱きながら釈尊にすがったのです。釈尊は「子供を生き返らせる薬は白いケシです。町へ行ってもらってきなさい。ただし、今までに一度も死人を出していない家からですよ」と言われました。
 彼女はケシさえ手に入れることができたら、子供が生き返ると喜んで町へ行ったのです。一軒一軒、訪ね歩きますが釈尊の条件を満たす家はどこにもなかったのです。疲れ果てて戻りますと、釈尊は「生ある者は、必ず死ぬのであって、この道理に反する者はだれもいない」と諭されました。母親は自分の愚かさに気づき、その後、子供の供養にと仏門に帰依しました。
 このように、あるがままにこの世を捉えるということは、辛さや苦しさから逃げ出さないで、じっとそれを直視することです。それが「柳緑花紅」なのです。
その場その場において、自分は今、何をしなければならないか
(撮影:山本文渓)
その場その場において、自分は今、何をしなければならないか
 曹洞宗を開かれました道元禅師は、24歳のときに宋へ渡り禅の修行をされて、28歳でお帰りになっておられます。足かけ5年間、彼の地で修行をされて来られました。禅を伝えるべく帰られたときの説法に、「私は宋へ留学して帰ってきましたが、そう長くおったわけでもないし、たいした修行もしていない。たまたま天童山で如浄禅師にお目にかかって、ほかでもない、眼は横に並び、鼻は縦についておるということだけを、しっかりと覚えてきた。これだけは、だれがなんと言っても、だまされはしない。仏法くさいものはひとかけらもなかった。したがってまったくの素手で帰って参りました。太陽は毎日東から上るし、月は夜な夜な西に沈む。それだけだ。鶏は夜明けの五更(こごう)になると時を告げるし、3年 経つといっぺん閏うるう年がまわってくる。この事実よりほかに仏法などはどこにもなかった」
 眼は横にあり鼻は縦にある。日は東から上り月は西に沈む。3年すると閏年があるとは「当たり前」のことで、「ありのまま」です。ありのままを離れて、仏法なんてものはどこにもないということなのです。男は男らしく、女は女らしく、親は親らしく、子は子らしく、学校の先生は先生らしく、学生は学生らしくする。当たり前のことが当たり前におこなわれること以外に、仏法というものがあるはずがない。
 道元禅師の開かれた曹洞宗では、坐禅を「只管打坐(しかんだざ)」と言います。余念を交えず、ひたすらに坐わるのです。道元禅師は宋の国にあって5年間の修行を経て、その結果 「只管打坐」を体得したのであります。
私の所属する臨済宗では、「只管打坐」は最終目的であります。私のお寺でおこなっている坐禅会では、初めての方に指導するにあたり、いきなり余念なく坐ることは困難だということで、呼吸の数を数える「数息観(すそくかん)」をおこないます。
 吐く息と吸う息がありますが、長く吐いている息を「ひとーつ」と数えます。吐く息は長く吐きます。数えるのは「ひとーつ」だけでよく、これを繰り返します。心で言いながら、下腹に気持ちを込めて息を吹きかけるように大きく吐き出します。これができてくると数えなくても頭に何も浮かばない状態ができるのです。
花はだれのために咲いているのか──ただ咲くという無心さが大事である
(撮影:山本文渓)
花はだれのために咲いているのか──ただ咲くという無心さが大事である
 修行道場では、この後に「公案(こうあん)」という坐るための問題が与えられます。これは頭でいくら考えてもわからない問題です。これをテーマにして「公案」と1つになって坐るのです。宋の時代にできた「無門関(むもんかん)」「碧巌録(へきがんろく)」「臨済録(りんざいろく)」などは公案集であります。ひたすら坐わる、ただ坐わることはやさしいようで、実はたいへん難しい。ですから、我々は、階段を一段一段上るが如くに一つずつ公案を上っていくのです。
 道元禅師のお歌に、
  春は花 夏ほととぎす 秋は月
  冬雪さえて 涼しかりけり
というのがあります。春は花が咲き、夏はホトトギスがさえずり、秋は名月を観賞し、冬は雪が降り涼しささえ感じられる。それぞれ四季をそのまま表しています。
 また、碧巌録には「百花の春に至って誰が為にか開く」とあります。春になっていろんな花が咲きますが、だれのために咲いているのか、といった意味合いです。
 日本人は花で四季を感じます。春になると花見をします。美しいからですが、春になって暖かくなったことの喜びも1つの理由でしょう。しかし、禅宗ではその容姿ではなく心を見るのです。邪心のない、作為のないところ、「ただ」咲くというところ、その無心が大事なのです。
 ある人は散りゆく桜の花を見て、花も惜しみながら散っていくと言ったりしますが、それは人間の感情を桜の花に移入させているだけであって、桜の花は少しも惜しいと思いながら散っていくのではないと思います。本誌の昨年10月号の柴山全慶老師の「花語らず」の歌を思い出してみてください。花は無心に咲き、無心に散っていくのであります。
 「柳緑花紅」は単なる「柳や花」ではなく、人間の生命も同じです。私たち煩悩だと悩み、罪業だと苦しんでいるものはすべて実在しないものです。それらは、私たちの心を覆い隠している、雲や霧のようなものにすぎないのだという自覚が「柳緑花紅」すなわち、禅的世界であるといえます。
 
人生をやわらかくする 禅の言葉
第6回    
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