人生をやわらかくする 禅の言葉
 日 々 是 好 日  無 功 徳
 看 却 下  歩 々 是 道 場
 平 常 心  柳 緑 花 紅
 
第2回  
看却下
 京都にあります「禅文化研究所」よりポスターが送られてきました(写真)。大きなものです。看却(かんきゃっか)下の大きな文字と一緒に下駄が写っています。あとはQRコードがあり、“禅のことなら”、と問い合わせのア ドレスが書かれています。
 今も門に張ってありますが、これで話をせよとも受け取られるので、法事のあとでこれについてお話をしております。
 
その場その場において、自分は今、何をしなければならないか
(撮影:山本文渓)
看却下
この「看却下」という言葉は、中国・唐の時代に五祖法演禅師が弟子三人を連れて歩いておりました。夜なので行灯(あんどん)を持っておりました。すると突然風が吹いてきて行灯の中のロウソクが消えてしまいました。辺りは真っ暗です。いちばん頼りとなるべき明かりが消えてしまったのです。
  そのときに、五祖法演禅師は弟子たちに聞きました。この真っ暗になったとき、一句言ってみろ。真っ暗になったとき、今おまえは何をしなければならないかを五祖法演禅師が聞いているのです。すると弟子の一人が「看却下」と答えました。真っ暗でありますから足下に気をつけて行こう、となります。
 この看却下と同じ意味で「照顧脚下(しょうこきゃっか)」という言葉があります。よく禅寺の玄関先に掲げてあります。脚下を照顧せよと読み、足下をよく見なさいという意味で、看脚下と同意であります。
  そ の場その場において、今おまえは何をしなければならないかを聞いておりますので、玄関先であれば履物をきちんと脱ぐ。またしまう所があればその所へしまう。それでありますから禅寺の玄関先に掲げてあるのです。
 また乗り物に乗ったときは、今何をすべきか。座席に座っているのでしたら、そこにお年寄りが入ってこられたら席を譲ってあげることも、照顧脚下になりますでしょう。先日電車に乗っておりましたら、私は立っておりましたが、小学生のお子さんが席を立ってお年寄りに席を譲ろうとして席を離れました。お年寄りを連れてこようとしたら、空いた席に他の方が座ってしまい譲ることができませんでした。お年寄りは「坊や、ありがとうね」と頭をなぜておられました。子供にとっては善行が果たせなかったですが、お年寄りの「ありがとう」の言葉で安堵したこと
各自に与えられた仕事に打ち込むことが各人にとっての「看却下」
(撮影:山本文渓)
看却下
と思います。

  私事で恐縮ですが、昭和40年秋に禅の修行のために京都へ行きました。その当時は新幹線ができたばかりで、なかなか切符が手に入りにくい状態でした。そんななか、修行の旅立ちの格好で新幹線に乗車しました。足下はわらじがけでした  京都に着いてその晩は本山に泊めてもらい、翌日早朝に専門道場へ行きました。玄関先で荷物を置いてその上に頭を載せて、大きな声で「頼みましょー」と声をかけますと、奥から「どーれー」と返事があります。まるで時代劇のようです。
 係の者が、「いずれより」と聞きます。つまりどこの弟子で何という者で、この度この道場に入門したい旨を名乗ります。係の者は退場して、5分ぐらいしたら再度出てきまして、「当道場は満衆につき十分な修行はできません。あなたのような立派な方は他の道場へ行って下さい」と鄭重に断られます。そこであーそうですか、と思って他の道場へ行っても同様に断られますので、決めた道場で粘るのです。
  しばらくすると再度現れ、「何をぐずぐずしているのかー」と怒鳴られて追い出されてしまいます。私が行ったのは南禅寺ですから、周りには観光客がいるのです。なにか悪いことをして追い出されているというような冷たい視線を浴びせられます。
 再度、玄関に戻って始めの体制をつくって願いを請います。そして昼食、晩食が終わり、一日が終わると「日も暮れましたのでどうぞお休み下さい」と一部屋に通され休みます。翌日は朝食がすむと「天気もよさそうですからどうぞ御出立下さい」とまた出されてしまいます。
 再度、玄関先へ戻りまして二日目に入ります。三日目からは一部屋に通されて、壁に向かって坐禅をします。背中側は開いておりますので、だれかが通るので、足が痛いからといって投げ出すわけにはいきません。この状態が5日間続くのです。  目の前にあります壁に落書きがあります。「右を見てみろ」右を見ると「左を見てみろ」左を見る
建設中のスカイツリー    (撮影:山本文渓)
と「きょろきょろするな、後ろに気をつけろ」と書かれている。また、そーっと忍び寄る足音がするので、なにか怒られるのかと思ったら、「暗くなったら食え」と饅頭をもらった。今になってもだれがくれたのかわからない。しかし、ありがたかった。何年か経って知り合いのお寺の弟子が来られたときには、私もそーっと饅頭を差し入れたのを思い出した。
近くの東山動物園から聞こえてくる声がなんの鳥の声かなー。今鐘が鳴ったのでもうじきお昼ご飯だなー。夕方6時には近くの永観堂の鐘が鳴ったりするので、始めのうちは周りの音ばかりが気になります。
 しかし、日が経つにつれて、「おまえ何しに来たんだよー、修行しに来たんではないのか、ぼやぼやするなよー」と自問自答します。外に向かっていた気持ちがようやく自分に向けられるのです。
 これが私にとっての「看脚下」であります。この場所で今何をすべきかと聞かれたとき、今は修行に打ち込むことであります。
何もしないで一週間過ごすというのは、大変無駄なように思われますが、修行に向かう心構えを獲るのには大変貴重な時間になるのです。
 こんなことをみなさんにせよということではありませんが、各自に与えられた仕事があるのですから、その仕事に打ち込むことが各人の「看脚下」であります。
 他人と比べては仕方のないことです。まず自分は今何をなすべきかを自分に聞いて下さい。ロウソクの火は風が吹いたら消えてしまいます。心の中の火は風では消えません。「看脚下」によって心に灯火を掲げようではありませんか。
 
人生をやわらかくする 禅の言葉
第2回  
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