ビビが可愛がっているカルーは、大きいけどカルガモである。

   お留守番
    
『蜜月まで何マイル・その後』


        4

 買い出し班の一行は、サンジが用意した弁当と飲み物、支払い用の金貨とを携えて、目的の港町を目指して出発して行った。船を着けた岸から続く小道が吸い込まれる木立ちのその奥へと、姿が見えなくなるまでずっとずっと見送るかと思ったが、
「…っと。」
 いやにあっさりと船端から飛び降りて甲板に戻ったルフィは、傍にいた乗用カルガモのカルーに頬擦りされると、
「こら、よせよ。」
 くすくすと笑って羽根を撫でてやり、上甲板の方へと足を運ぶ。航海中はいつも乗っかっている舳先の羊頭に向かったらしい。
"…ま、これで後は明日になるのを待つばかりってな。"
 善しにつけ悪しきにつけ、時間が経たねばどうにもならないというシチュエーションが動き出した訳で。自由が利かない海の上ではそういうケースも珍しいことでなし、昨日のゾロの見解を借りるなら、ちょっとしたシュミレーションは今まさに始まった…というところ。
「ルフィ、落ちるなよっ!」
「おうっ!」
 一応声をかけ、サンジはキッチンへ引っ込む。ここの調理台と流し台は、丁度前方、舳先を見通せるように窓が開いている。よって、よほど気を取られない限りは、いつだって船長の小さな背中を見張っていられた。今もよじ登り終えたルフィの背が見えて、だが、その同じ視野の中、いつもなら…やはりルフィが無事に登り切ったのを見届ける剣豪の横顔が遠目ながら収まったのになと、ちょっとばかり物足りなさを覚えもしたが。

 ルフィの好物というのは肉と甘いもので、単純に考えれば…甘いものはともかく肉の方は、準備にはさほど手間暇はかからない楽な代物。ただ、育ち盛りの食事という見方から言えば、ちょこっとあれこれ偏り過ぎになるのがサンジには我慢がならず、肉は肉でも温野菜を芯に巻いて"八幡巻き"にしてみたり、甘いものなら砂糖だけでなく蜂蜜を使ってカロリーを調節してやったりと、本人の及び知らぬところであれこれ工夫を凝らしてやっていた。ナミのためのビビのためのこまやかな気遣いに負けないくらいの工夫は、時としてサンジ本人へも、
〈…何でこんな面倒なことを。〉
と、思わせたりもしたが、ただ腹を満たすだけでいい食事とは到底思えぬくらい"旨い旨い"とあの無邪気な顔で幸せそうに言われると、なんだかこっちまで幸せになるから仕方がない。カラメルソースのスフレとガトー・ショコラの下ごしらえをし、ランチ用の骨つきの鷄のもも肉を十本近く、蜂蜜を塗ってまずは第一段階の素焼きのため、オーブンへと放り込み、晩餐用の霜降り肉の塊りの成型を済ませ、大鍋の…これから明日の夜まで煮込み続ける予定のビーフシチューを軽くかき回して、やっとこ一息つくことにした。テーブルに置いた上着の内ポケットから煙草を取り出し、オーブン用のマッチを壁に擦りつけて火を点ける。そのマッチを流しへと放って、
こらこら
"…ん?"
 ふと顔を上げると、羊頭がいやにすっきりしていて、
"ルフィ?"
 ほんのさっきまではいた姿がない。
"まさか…落ちたか?"
 岸に着けてこそいるが、眼下には海。無論、座礁しては話にならないから、水深がない訳ではない。血の引くような嫌な胸騒ぎを覚えてドアへ向かいかけたサンジだったが、その視野にトコトコと小さな背中が戻って来た。どうやら少しの間、席を外していただけならしい。
"…ビックリさせやがって。"
 はぁ〜っと胸を撫で下ろす。神経質になるのも何だが、今は保護者のゾロもいない状態であり、何かあったらそれは間違いなく自分の監督責任…。
"………。"
 十七歳にもなる少年を掴まえて幼児並みなレベルの扱いをしているなと気がついた。
"…まあ、それは今更かもな。"
 苦笑が洩れる。戦闘で頼りになりすぎることへの帳尻合わせのように、日頃の何でもない筈の何事へも危なっかしくて、ついつい手を出し口を出し、見守ったりあやしたりしたくなる存在。それが"ルフィ"なのだから仕方がない。

 ………だが、そうも言ってられなくなったのが、それからもどういう用でかひょいひょいと姿を消すルフィであったから。他に誰かがいて…例えばウソップにちょっかいを出しているとか、ビビからお伽話を聞いているとかいうのなら問題はないのだが、今のこの船ではあり得ないこと。(日常の話題に"大きなカブ"とか"金のガチョウ"だとかいうお伽話が取り上げられる海賊団というのも珍しいが…。)←『旅の途中』参照
「こら、ルフィ。」
「ん? なんだ?」
 けろっとして振り向くルフィへ、
「さっきから何だ、ちょろちょろと。腹でも壊したか?」
 業を煮やした短気なコック氏は、とうとう本人へ聞いてみることにした。わざわざ足を運んだ上甲板だが、
「腹? いいや、何ともないぞ。」
 質問の意図が判らず、そっちこそ変なことを聞くのなと言いたげな顔になるルフィで、自分の行動が奇異なものだという意識はない様子。サンジは、小首を傾げるあどけない顔へため息をついて見せ、
「じっと一つ処に居続けろとまでは言わんが、さっきから分刻みでちょろちょろとどっか行ってるじゃねぇか。何があったかって気になって落ち着けねぇんだよ。」
「あ…。」
 指摘されて初めて、そんなにも細かい…分刻みな行動だと、やっと自分でも気づいたらしい。そして、成程それは確かに不審かも知れないと思ったか、わざわざ羊から降りて来て、
「えと、んと…。」
「どうしたよ、んん?」
 不器用ながら説明しようとする気配を感じて、責めるつもりはないぞと、声のトーンを落として訊くと、
「やっぱり居ないんだなって…。」
 ルフィは唐突な一言を繰り出した。
「あ?」
 訊き返すと、やや視線を落とした彼だ。
「どこにも居ないんだなって。部屋にもリビングにも、倉庫や廊下にも、どこにもやっぱり居ないんだなって、判ってはいたんだけどそんでももしかしてって思って、つい見て来たんだ。」
 相変わらず言葉の足りない彼だが、慣れがあるのと察しが良いのとが相俟って"…成程ねぇ"と合点は行った。いつもいつも傍に居た存在だのに、影も形も、温みも声さえもない。夜はどうだか知らんが
おいおい、日頃は世間が?言うほどにはべったりくっついている訳でもなかった彼らだから、だからこそ、探せば…名残りのような何かがどこかにあるかもと、そんな気にさせたのかも知れない。鍛錬にと振るっていた重石つきの鉄の棒に、部屋に脱ぎ置かれたシャツに、とだ。早い話が…旦那が急な出張でやっぱり寂しい若奥さんというところだろうか。こらこら
"………。"
 合点がいった…とはいえ、それをそのまま"ああ、そうですか"で終わらせる訳にも行かないと感じたサンジだ。何しろ、彼の使命は"寂しがらせないこと"であり、加えて"ゾロが居ない状況でも日頃のペースを保たせること"なのだから。
「あのな、ルフィ。ここには今、カルーを除
けたら二人しかいないよな?」
「うん。」
「その二人のうちの一人がだ、今は居ない奴にばっかりずっとこだわってたら、どうなる?」
 相変わらず洞察は苦手なのか、
「…どうなるんだ?」
 大して考えてみもせずに訊いて来るのへ、サンジはそれはなめらかに応じた。

「もう一人は独りぼっちにされて放っておかれる。」

 途端に、
「………、あっ!」
 大切なことへ今初めて気がついたというように顔を上げ、
「ごめん、サンジ。俺、気がつかなかった、ごめん。」
 一際そばへ寄って懸命になって謝って来るところが、どこかやっぱり子供っぽい。自分がされれば悲しかろう寂しかろうという置き換えが素早く出来るのか。いや、彼はそれほど脆弱ではないと、あの剣豪から聞いたことがある。恐らくは…いつぞやに"誰かさん"の気持ちに翻弄されて辛かった経験から、そういう機微へは幾分か判りが良くなっているということなのかも知れない。一方、
「いや…俺も仕込みや何やで構ってやれなかったから、まあ"お相子"だがな。」
 こうまで気遣われるほどには傷ついていなかっただけに、反応の過敏さに却って面食らったサンジだ。懸命な顔へはさすがに戸惑ったが、それでも"くすん"と微笑うと、
「今、ちょっと手が空いて暇なんだよ。何かゲームでもするか?」
 切り替えが旨いのはおサスガで、
「うん。」
 ルフィも素直に頷いて、促されるままキャビンへ向かう。
「サンジって大人だな。」
「何がだ。」
「ちゃんと自分で気がつけよっていう話し方とかするじゃないか。俺だったらそんな頭回らないから、思ったそのまま言っちゃうのに。」
 単なる押しつけのお説教だとすぐに忘れるけれど、自分で洞察して気がついたことだとこれがなかなか忘れにくい。お忙しいお母様方には"そんな悠長なことしてらんないわよ""理想は理想、現実には到底、無理無理"とか仰せかも知れないが、こういうことも大事だということで、はい。…子供へのゆとりある啓発論はともかく。
「そっか。大人か、俺は。」
「うん。」
 頼もしい仲間で嬉しいと、そう言いたげな満面の笑みを向けられては、
"参ったなぁ、一対一じゃあ皮肉も言えん。"
 相手が純真な子供である分のハンデを埋める"フォロー役"がいないから、得意のアクの強い言葉遊びが出来なくて、むしろこちらのペースが狂いそうになる。ルフィが褒めた"物の言い方"にしたところで、遠回しが過ぎて通じなければ意味がないのだし、意味が通じても"厭味な言い方だ"というのが先に来れば、気づかせたこと自体へまで悪い印象を植えつけかねない。海の荒くれ男たちに囲まれて子供時代を過ごしたという条件は同じ筈だのに、天真爛漫なルフィと小理屈に長けた自分と、よくもまあこれだけ素地が異なって育ったものだ。サンジは苦笑すると、照れ隠しとばかり、ルフィの頭に乗っかった麦ワラ帽子のツバをひょいっと下げてやったのだった。


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