エスカレーション白い楽譜バナー

by.大久保美籾&狐月

聖バレンタイン・ラプソディ

 どこの学校でもそうだが、学生会(生徒会)室というところは、選民のための治外法権エリアだったりする。厳格なるカソリック系全寮制一貫校聖アザレア女学院においても、それはまったく変わらない。
 応接室から払い下げられたソファにテーブル。各種電気製品あーんど情報機器完備。隣には給湯室。眼下は温室に花壇に植木に垣根、どこもかしこも薔薇だらけ。設備も環境も申し分なし、となれば。誰だって「ポーの一族」になるしかない。
 実際のところ、詩集の一節でも詠みながら、薔薇茶をたしなみ、ささやかにして甘美なる背徳をついばむ、というのは。今年にかぎらず、この部屋ではごく平凡な日常だ。
 しかし。この二人に“おぜうさま”なことを期待するのは少々無理なこと、かもしれない。
「これ、うまいっすねぇ、先輩」
 テーブル前をチョコチップクッキーの粉で、そばかすの散っている自分の顔と同じにしている子は、アリサちゃんという。りりしいショートカットは快活少女の証明書。グリーンにイエローラインのセーラーが、身の丈よりひとまわり大きいのも、テーブルと口を往復する手が忙しいのも、まだまだ1年生。かわいい盛りはなんたって、ナントカよりナントカ、である。
「そぉね。なかなか」
 アーモンド入り、ウイスキーボンボン、ホワイトチョコが降ってあるボール。3個まとめて放り込んだ娘は、マリという。だいだい色のリボンで頭髪を両サイドにまとめて、黙っていればお人形さんのようだと誉められる美形も、ほおばるだけほおばっていては跡形もない。3年生のこちらは、ナントカはもちろんナントカも、である。
「ろれもほれも、まったりほろーり。ほれでいて重ふなく、ほのかに苦く。…なんらっておミソなあんたにしちゃ、上出来よ、ムグ」
 ぶっすー。後から来て8割方よこどりしたくせにぃ。
「何か言った?」
「いーえ、べつに」
 うげげ、たいへんです、せんぱい。ま、タイヘン、聞こえなかったことにしといたげるわ。
 さっきから芸能醜聞を垂れ流しているTVを指さすアリサに、キノコとタケノコをつまみながらマリがつぶやく。
 キーボードの女の子、どっちとくっつくんでしょお? ふふん、ヴォーカルとギター、どっちもバカなオトコじゃない。はぁ。バカなオトコにすがりつくあたりがバカすぎよね、こいつ。はぁ。
「ところでさ」
「んぁ」
 マリに負けじとアリサが頬張ったミニシュー4コは、チョコクリームだ。
「今日のこれ、どっからの?」
 すいません。知りません。と言いたくて、ぶんぶんとアリサは首を振る。
 中身の豪華さからして、ミサでのお供物の残り、あるいは教員あての贈答品が下賜された、という線をマリは考えたのだが、そうではないらしい。
「どーせ、毎度毎度のアレですよ」
 アリサが放ってよこしたカードには、薔薇の花びらが添付されている。薄い桃色と濃い紫と。そのへんにアリサが“わざわざ”ひっちゃぶいて放り出した包装紙とリボンも、ピンクとバイオレットのパステルトーン。それはそれは乙女ちっく、というヤツだったりする。
「にしちゃあ、手が込んでるわね」
 ここにいると、調理実習の“傑作”や“気持ちですから”、というヤツが欠かさず沸いて出る。それらはたいてい、もっと即物的なメッセージが強かったようにマリは思う。気の利いたものでも、カードにあるのは熱烈な短歌や詩の一節などである。
 お茶菓子に困らないのはありがたい。が、ここがどういう場所で、どういう想いの込められたモノなのかを考えると。いただくのが礼儀なのか、断る方が健全なのか、意見の分かれるところである。
 なに妬いてんの? ぶぇつぅにぃなんでもありません!! こないだも新聞のすみっこ切ってたわね、ナントカ音楽祭・ピアノ部門優勝ってやつ。なんでもありませんったら。“大切”な“すぇんぷわぅい”は人気者だもん、ねー、誰がこんなん寄越してきたんかしら、ねー。知りません。こんどのはやたらとセンスいいわよ、強敵じゃない? 関係ないです。ま、妬いちゃってカワイイ。何も焼いてません。“妬いて”る。ぶー、そういう言い方、どっかのいぢわるな先輩みたいでヤです。やーね、アレほどいぢわるじゃないわよ、あたし。どーだか。
 よっこらせ、と身を乗り出したマリに、アリサが一瞬身を引く。べつにマリはアリサをどうこうしようとしたわけではなく、床の過剰包装の残骸をつまみあげたかっただけなのだが。
 なにびびってんのよ、ばーか。むっかぁー、マリ先輩、どっかのだれかさんみたいに吊り目になっても知りませんからね。
「ほんとに、ただの差し入れかしら」
 すっ、とマリの瞳が翳ったのにアリサは気づかなかった。
 じゃあ、貢ぎ物、ですか? やーね、そんな下品な言葉、つかっちゃダメよアリサちゃん、あなたは素行不良・行儀見習いで上級生預けになってんだから。っとに、どこを見習え、なんだか、もぉ、こんなんばっか。何か言った? ええ言いましたきっぱり西洋人もあきれたポーズしちゃいますもう。
「ふんだ。こんなもの、ただの差し入れに決まってい・ま・す!!」
 力説するアリサの視線の先に吊されたカレンダー。14の数字には特大の花マル。2月といえば、チョコレートメーカーの提唱による日本国固有の年中行事。誰がくれて寄越したかはともかく、どういうつもりで作られたのかまでは。アリサ同様、マリも考えたくない。マリだって“ナントカ音楽祭・ピアノ部門優勝”の記事を集めるクチだからだ。
「ま、いつものことにしときましょっか」
「そっすね。天使様のおくりものってことで」
 ここはミッション系。厳格なるカトリック女学院。行儀作法にはうるさいことで有名なはず、だが。
 特定の物だけ吸い込む真空掃除機が2台、あれよあれよという間に、机上をきれいにしてゆく。
 マリがアーモンド、アリサがカシューナッツ、を詰め込んで。
 とうとう箱の中は、ジャイアントポッキーが1本、だけ。
 ふたりのあいだに、1本だけ。
 1本、だけ。
 …なら油汚れだってカンタン。奥様もラクチンですね。
 誰も見てないTVがうるさい。
 居合斬りの模範試合のごとく、緊張と火花が散る。
 電光石火!
 タッチの差でマリの手に落ちる。
 ふふん、と得意げなマリを睨みつけると、不意にアリサが視線を外す。
「あ」
 アリサの振り向いた先に、ついマリも視線がゆく。
 視線はそのままに、横から延びたアリサの左手が、マリの右手の持つ上半分を折り取ろうとして、……しかし、空を切る。
 まだまだ甘い。ち。
 だが、アリサのあ、はまったくのフェイントというわけでもなかったようだ。
「マリったら。アリサちゃんとなに騒いでイ…」
 入り口でプリント束をかかえた少女は、リエという。可憐なロングストレートの、砂糖菓子のように微笑むこの少女こそ、この部屋の主、学生会長そのひとである。
 ただのおっとりした女の子にしか見えないが、どうしてどうして。学業優秀、品行方正、おまけに、母親の言うがままにピアノのコンクールに参加しては、片っ端から賞をもぎとっている才媛である。ゆえに、付属の幼稚園から女子大まで、学院内で彼女のことを知らない者はいない。
 もっとも、そんな周囲のことはリエにはどうでもいいようだ。マリたち級友やアリサたち後輩に対して、リエはまったく変わらない。いつもいつも天使の微笑で接してくれる。はずなのだが、どうしたことだ。きょうに限って、聖女の微笑は、ふたりのほうを見ている間に失われてゆくではないか。
「どしたん?」
「あ。おジャマ、して、ま…」
 一瞬の沈黙を天使の足音という。
 縁側のひなたぼっこが雪山遭難してしまったのは、どうやら自分たちに原因があるようだとふたりとも気付いた。
「全部…全部たべちゃったの?」
「ん」
 もにょもにょいいわけを探しているマリの横で、潔くアリサが謝る。
「ご、ごめんなさい。リエせんぱいの分は…その…食べます?」
 あ、てめ。ちがいますってば。
 アリサがリエに突き出したのは、マリから強奪した特大ポッキーの上半分。
 わしづかみにしてチョコべっとり。
 突き出したほうも突き出されたほうも、気まずく沈黙する。
 ありがと…でも、もういいの。えっと、じゃあ、あの…いただき、ます。
 バカ、だからって自分の口に入れるな。いたっ、何も脚蹴らなくたって。もちろん、テーブル下で何があったかは、リエには見えてない。
「いいのよ。どーせ失敗作だったでしょ?」
「そんなことありません。とっても、とっても、おいしかったです。どこの誰が作ったのか知りませんけど、とっても甘くて愛情たっぷりで。お店で売ってるヤツのマネしたものまで、ぜんぶ手作りだなんて、もぉ神業です」
「そぉ? 良かった」
 さびしげにリエは微笑むと、おべんとついてるわ、アリサのほっぺにキスをして、ついていたチョコ粉を取る。
 うわぁ、なんだかH、といいながら、アリサはしあわせそうに顔を赤くする。
「あ、あたし音楽室に楽譜(スコア)置いてきちゃった」
 唐突にリエはプリント束をそのへんに置くと、ぎこちなく部屋を出ていった。
 数歩、歩く足音がして、あとは駆足が廊下にこだました。
 ふたりともまずったなぁ、と思ったその時。
「いーっけないだぁ、いけないだぁ」
 泣ーかせた泣ーかせた。せーんせーに言ってやろ。いーけないだぁいけないだぁ。…。
 背後から、かの有名な童謡が聞こえてきた。
 知っている声にふたりが振り向いてみれば。
 節にあわせて書庫への入口を、ざーとらしくギィィィと言わせているのは。
「ミドリ先輩…」
 真っ赤な太身のリボンでポニーテールを決めている少女は、見事な猫目だった。
 アリサの前で猫目がアップになる。
 いいいつからいらしたんです? あんたが桃色リボンほどいて、マリが藤色包装紙ひっちゃぶいたときから。げ、ささいしょっから、みみ見てたんですか? どうしていぢわるすると吊り目になるのかな、アリサくん? なななんででででしょぉ…。ま、いっか、こんどゆっくり教えてね。ははは…。
 あんたはあっちにいったいった、と冷汗とばしてるアリサに向かって手をひらひらさせながら、ミドリはマリの前に来る。
「な、何よ」
 どかっと剣呑な音がしたのは。座っているマリの右横から、テーブルの上にミドリが右手を置いたから。同級生でもあるマリに対して、遠慮する理由はなにもない。マリは文化部総長、ミドリは運動部総長。学生会内においても対等である。
「泣かせた」
 ぽとり、と核心を突く言葉を落とされて、空気が凍結する。
「あ、あたしは何もしてないもん、悪いこと」
 自分が何をしたのか。マリにはすでに分かっていた。
「泣かせた」
 マリを見下(みくだ)してミドリは繰り返す。低下した気温は空間に亀裂を入れる。
「るさいわね。チョコ食っただけじゃない」
 だけ、ではないことも、マリには分かっていた。
「リエちゃん、泣かせた」
 ミドリはしつこく繰り返す。そして、亀裂の入った空気は砕け散る。
「だったら何だってゆーのよ。ここにあるってことは、しょせん、ミサの残り物か、下級生の差し入れでしょ」
 あたしは。悪くない、もん。残り物を処分しただけ、だ…もん。
 マリは一度は開き直ったものの、終わりほどデクレッシェンドがきつくなって、しまいには、もにょもにょを舌上でこねまわす。
「パープルは至高にして絶対唯一の色。ピンクは汚れなき乙女の色。誰が誰に宛てて、どんな想いを込めた小箱だったのかしら、ねぇ」
 先刻のリエの反応で、マリにはすべて分かっている。マリが分かっていると知っていて、この猫目女は言っている。一呼吸おいて、いや、2呼吸分の空気を肺にチャージして、マリは心底のすべてを爆出させた。
「そうよ。リエが形にした大切な想いとやらは、あたしとアリサで全部たいらげたわよ。きれーさっぱり、欠片も残さず!!」
 げ、うそぉ、どおしよぉ。リエせんぱい、チョコ食べたかったんじゃなかったんだ。あれ、リエせんぱいが作ったナオミせんぱいへの…。
 いまさら凍結するアリサを無視して、マリは続ける。
「あれが、どっかのだれかさんの口に入らないようにねっ!! ほんとはあんただって処分…」
 ミドリの左手が一閃したのは、マリの続きを封じるためだった。
 平手ではなく、拳だった。
 マリは背後のテーブルに倒れ込む。反射的に右手でつかんだテーブルクロスは、マリを支えるにはあまりに非力で、そのまま引っ張られ、上のティーカップたちは全部、床で断末魔を輪唱することになる。
 尻餅をついたまま、マリは口でミドリを攻撃する。
「ほんとは、ほんとは、あんただって欲しかったんでしょ。卒業しちゃったどっかのだれかさんになんぞに渡したくなかったんでしょ。ひとりじめしたくて、でも手を出す勇気がなくて。悶々としながら、ただ見てただけなんでしょ。そうよ。あたしたちが処分してやったのよ。感謝くらいしな…」
 ミドリは黙って右足でマリを蹴りつける。が、マリは左鎖骨にヒットしたそれをつかんで、ミドリを引きずり倒す。倒れ込んだミドリの上に馬乗りになるが、ミドリに巴投げを決められて、先刻までミドリがいた床に叩き付けられる。跳ね起きて飛びかかってきたマリの右サイドの髪束をひっつかんで、ふたたび床に沈めようとしたところを、マリにひきずられて一緒に床に落ちる。女子校生のかたまりは2回ほど転がって、出窓の下にぶつかる。衝撃でピンクのカトレアと藤色の蘭を生けた花瓶が落っこちて、砕け散る。ミドリに組み伏せられ、首を絞められているマリの手が、手近な破片に触れた。
 それは、きれいな鋭角三角形の破片。
 鋭角三角形。
 ぼつぼつ正気に返ったアリサにだって、次に何がおこるかは想像がついた。
「それはダメです! 反則です! マリ先輩、だめぇぇ!!」
 
 さいわい、保健室にドクトル(まだ若い保健医のシスターは、そう呼ばれている)はいない。だから、しみない消毒薬も見つからない。
「いたぁい。しみるぅ。ひりひりするぅ。ジクジクじわじわズキズキするぅ」
「文句言わないの。赤チンでおてもやんにされるよかマシでしょ。我慢なさい」
「誰のせいで怪我したと…」
「だからこうして優しく治療してあげてるんじゃない、ほれ」
 とおーってもしみるオキシフルを脱脂綿ひたひたにして、マリはそれをアリサの左腕に押し当てる。同時に絶叫。
 どこが優しいんですか、どこが。文句言わない、右を殴られたら左のほっぺも出せっていうじゃない。なんですそれ? それにちょっと違うような…。違いません、こないだリエと読書会やったのに、もう忘れたの? そんなヘンタイの話なんて覚えてません。ほら、シナモンティーと杏仁豆腐食べたじゃない。あ、それとぶたまん。点心とおいい、お子様なんだから。…あっ、すぐそうやってごまかすぅ。ごまかしてなんかないわ。ウソツキではくじょーな先輩なんて、ほっときゃよかったんだもぉ、果たし合いでも殺し合いでも、好き勝手してください、あたし知りませんからね。
 アリサの傷はたいしたことない。先月、高飛び込みで水面に叩き付けられたときのほうがよっぽど重傷だ。
 なんで真冬に、と突っ込んだキミぃ、スポーツ特待生制度もある聖アザレアには温水プールくらい当然なのだよ。マリ先輩、博士帽なんかかぶって、どこに向かって話しているんです? いいからサクサク進行するわよアリサ、今回の主役はあたしたちなんだから。ふぁーい。
 ふたりがかりになる必要もない。面倒はマリに任せて、窓辺に立つミドリは、さっきから校庭の陸上部のトレーニングを見ている。
 ハードルのコース上を人間の波が走り、もつれ、砕け散り、ひいてゆく。ホイッスル、次がスタート、一直線は次第に崩れて、ゴール。寄せた波は引いてゆく。そしてホイッスル。海岸に立つミドリは、黙って波を見ている。うしろのにぎやかなやりとりには興味を示さず、ただ、波を見ている。
 こんどいちごタルトの作り方も、教えてあげるから。あた、いーっ。がまんして。ヤです、マロンとタルトとレアチーズだけじゃダメです。しょーがないなぁ、あとは何? 決まってるじゃないですかお客さん! ケーキといえばイチゴショートにはじまってイチゴショートに終わるんですっ! わーったわーったから、2度も回り込んで背景アップでどどんぱさせるんじゃない。やた、じゃない、こんくらいで勘弁してあげます。ったく、こんどこそ味だけじゃなくて作り方も覚えてちょうだいよ。い・ち・ご・しょおとー、むふふん、来週、放課後、家庭科室ですよ。はいはい。絶対絶対、いいですね。分かったから、いいかげん目をハートマークにするのやめなさいって。ずえっったいですよ!
 災難に見合うだけの賠償を確約して、アリサは元気よく出ていった。
 誰もいない。マリと、ミドリの他には。
「ほら、つぎはあんたの番よ」
 ピンセットにつまんだ脱脂綿を、マリはミドリにつきつける。
「何のこと?」
「とぼけっこなし。もうアリサ、いないもん」
 言われるのを待っていたかのように、ついいっ、とミドリの右脚を赤い糸が伝って落ち、ソックスを折り返した足首を赤く染める。立っているとスカートに隠れて見えないが、じつは大腿部をざっくり、やっていたのだ。
 ミドリは何も言わず、マリを見据える。
「勘違いしないでよね。あんたのためにやったげるんじゃないんだから。傷が残ったら、どう説明するつもり?」
 ミドリは考える。どういう状況で、彼女がこれを見つけるか。そのとき、どうなるか。なぜ傷があるのかと問うてはギャアギャア騒ぎ、理由を知ったらギャアギャア騒ぐ? それはカワイイ外見だけは彼女に似た、目の前のハマチ女の場合。彼女なら。ただ優しくしてくるに決まっている。理由を知っても知らなくても、メソメソグズグズするに決まってる。そして、生意気にも、優しく、行為の主導権を奪う。
 主導権を、奪われる。甘美な誘惑さえ感じるそれは、鳥肌モノの戦慄だ、とミドリは思った。
「…そうね。そういうことなら、治療されてあげるわ」
「たっーぷりオシオキしたげる」
「ぬかせ。それはオ・キ・シ・フ・ル」
 マリの横に座ったミドリは、潔く脚を預ける。
 脂肪のうすい、すらりとした脚。
 聖アザレアには神の御加護があるとまで言わせた、奇跡の量産装置。だれかさんが泣きそうな顔で欠員補充をお願いするたび、今回かぎりだからねという言葉は、すべて、学院長室の金色をした飾り物に化けている。
 脚だけではない。
 その精巧な運動装置のすべてをマリは知っている。
 傷口を這う、脱脂綿。
 グラウンドの彼方からホイッスルが聞こえてくる。
 ひとつ。
 またひとつ。
 無人の海岸ですべての行為が終わるまで、マリもミドリも、黙っていた。
 
 深夜の理科室、といえば?
 ここ聖アザレアにも、そのテの話は満ち満ちている。
 おお、闇を切り裂く少女の悲鳴!!
 内蔵露出の人体模型にぶつかったアリサの口を、マリがあわててふさぐ。
「やっぱ、やめときましょうよぉ、マリせんぱぁい」
 アリサはマジで涙ちょちょぎれている。
「伝説じゃなくて、現実なんですよぉ。ウチのクラスにもいるんです」
「内蔵模型とキスした娘が?」
「もっとすごいです」
 実験好きだった少女霊に解剖されかかったとかぁ、ホルマリン漬けのサナダ虫にヤラレかかったとかぁ、シカの標本が後ろからのしかかってきたとかぁ。あのな…おまえら、夜な夜な怪談してんのY談してんの? ったく最近の若い子ときたら。とぉっても怖いじゃないですか、オカサレちゃうんですよ、あれ、なにゲンナリしてるんです? とぉっても怖い話してるのに。おまえ、オカサレルって、意味わかってる? とっても怖いことでしょ? …。
「いまさらガタガタ言わない。前進あるのみよ臆病者!!」
「どーせあたしのアソコは毛なんかはえてませんし、ヒフだって薄いです」
「な、何の話よいきなり」
「やだな先輩、心臓と顔の話ですよ?」
 赤くなってなに考えてたんです? るさいわね、おマセな生意気たたくのはどの口? あ、先輩、カンチガイして…ヤらしいんだぁ。この口、ね!! やめてふははい。えい、ついでに垂れ目にしちゃる、きゃはは、変なカオ。けほけほ、ひとのカオおもちゃにして、ひどいです。なにいってんの、さっきのほうが美人よぉ、あたしが整形してあげるわ。うー、ほんとはマリ先輩だって怖いんでしょお、理科室(ここ)。
「……」
 あんたときどき鋭いわね。それほどでもぉ。ときどきね。ぶー。
「やっぱり、やめときましょうよぉ」
 今にも泣きそうな顔して、アリサの声はか細い。
 対して、落ち着き払ったマリ。
「ひとつ確認したいんだけど」
「なんでしょお?」
「リエに一生恨まれるのと、オバケに憑かれるのと。どっちが怖い?」
「……。オバケ」
「帰っていいわよ。ひ・と・り・で、ね」
「冗談です、冗談ですってば」
 先輩、設問が悪いです。どして? リエせんぱいにだったら、たとえ嫌われてても一生想われていたいです。おーお、いっちょまえにぃ。昔から、恋する乙女は一途なんです、ぶいさいんっっ!!
「じゃあ、手伝ってくれるわね」
「もちろんです。でもホントに作れるんですか?」
「るさいわね。入手できなきゃ、作るしかないでしょ」
 昼間、ふたりは学内中をかけずりまわった。
 それは困りましたわね、このへんにはコンビニもございませんし、でも、外出は月に一度、休日だけですのよ。友愛を示すのに、他の方法がいくらでもございますでしょう? 今年はあきらめなさいな。それはまさか、俗世間の堕落に毒されたんじゃございませんでしょうねぇ、学生会メンバーともあろうあなたがたが。全部使っちゃったし、明後日だからねぇ、すまん。そりゃ、無理ってヤツさね。ごめんねぇ、あたしはクッキーなの。すまん、じつはあたしも自分で食っちまってさあ、なはは。茶道部のウチは毎年ヨウカンと抹茶アイスどす。悪いけど、あたしはアタシを贈るから、キャ、言っちゃった言っちゃった。あかんわそりゃ、お好み焼き用の小麦粉じゃ、だめ? 貴様、なぜ現在建造中の世界征服ロボ13号の動力源を知っている!! いくら義理だって、当日前にあげるわけにはいかないぜ、べぃべぇ。それはダイエット中のあたしへのあてこすりかい? おおおオレはバババレンタインなんてこっぱずかしいことぜぜぜ絶対にしねぇよ、いいい一応オンナノコだけどよ、好きなおおお女の子なんていいいないぜ第一へへへヘンタイじゃあるまいし。ゴメンね、大昔、問題おこしたバカがいてさ、この時期だけは家庭科室でチョコつくるの、御法度なの。その、今年は詩集など用意いたしましたので。父と子と精霊の御名において、そんなフケツなマネの片棒かつげるかい!! もう実家に送ったあるね、わたしの国、今年も旱魃と大洪水だったある。これはパパにあげるのだから、…やーね、父親じゃないわよ。校舎裏の桜の下に埋めたのがあるけど掘り返す? いえね、去年、後輩からもらったんだけど、そーゆーの、キモチ悪くてさ。オー、ジャパニーズ・バレンタイン・デー、不思議ノ国ニッポンデース。あーら、自分で作るなんてビンボくさいマネ、あたくしがするはずがなくてよ、おーっほっほっほ。すまん、カネなら返すから、それだけは勘弁してくれい、今月最後の食料なんだ。義理チョコなら今年は寄付金に回しちゃった。あたくしの青春はテニスボール、そんな軟派なことは関係なくてよ。コーヒーならあるけど、ねぇ。あたしも、ココアなら。ぬし、温室で作ったコマツナならあっけど、おめもナベすっか? 愛を告白するヴァーチャル・チョコって画像プログラムならあるけど。わりい、物理のレポートと交換しちまった。まあ、いまどきチョコなんて、あたくしはハアト直撃なラヴソングなぞ作りましてよ、センチメンタル・デスメタルって曲名ですの。価格は需要と供給で決定されるのよ、ぴぴぴのぴっと、まぁこれくらいかしら? ふっ、あたしはもらうの専門だもの、んなメンドウなことしないわ。だめっっ、あたしの愛を砕いて削れっての!! 夏に別れた娘にもらったのでよかったら、え、もちろん去年のだけど、だいじょうぶよ、ずっと冷蔵庫の中だもん。
 寮や校舎はもちろん、温室から体育用具庫まで。マリとアリサは文字通り学院内すべてを走り回った。
 けど。
「いませんでしたねぇ、チョコくれそうなひと」
「まったく、どいつもこいつも。困ってるひとを助けろっていつも説教されてんのに」
「リエせんぱいがもうひとりいたら、喜んで譲ってくれるのにぃ」
「へぇぇぇ。あんたも分かってるじゃない」
 おミソのくせに、あの娘の貴重さが分かるなんてナマイキだわ。ぶー、また子供あつかいするぅ。ところでここ、ほんとに厳格なカトリック女学院なんですか? ま、いまどきのオンナノコの集団だかんね、幻想もってる世間様には悪いけど。さ、もうひと頑張りするわよ。はいっ!!
 くじけないもんっ! それはマリの大好きな言葉だ。
 結局、彼女たちはひとつの言葉だけを集めることになった。
 悪いけど…。
 そして皆が皆、最後にこう言った。
「明後日だよ? いまさら手に入りっこないじゃん。あきらめなよ」
 そして、あきらめの悪いふたりの至った結論が、真夜中の怪談である。
「ももも物はかかん考えようでですですね」
「そう。誰にもジャマされないで、専念できるわ」
「でも、ほんとに合成できるんですか?」
「食品なんて、しょせんは炭化水素の親戚よ」
「タンカスイソ?」
「化学、勉強してる?」
「まあ、その、ぼちぼちっと、な、なはは」
「コーヒーとココアで色と香りつけて。歯ごたえのベースは純パルプとゲル化合物でなんとかして。植物油のかわりの有機オイルはいくらでもあるし。ボンボンに使うアルコールは、アセトアルデヒドから逆生成させて」
「???」
 わけわかんないことばっかつぶやいて。できたはいいけど、ほんとに食べれるんかしら。エプロンじゃなくて、白衣と実験メガネで作ったモノが。
 不安なアリサを置き去りにして、マリはチョコレートもどきのレシピを練っている。
「決め手は甘みよね。とうとうお砂糖だけは手に入らなかったし。きょうびサッカリンなんぞ落ちてないだろーし」
「キリシタンなんとかって、ありませんか?」
「キシリトール。んなもん、一介の理科室にあるわけないでしょおが」
 だいいち、んな最新の人工甘味料、あたしたちの時代にはないでしょーが。いたた、何も殴らなくたって。いい、ばいきんまん様の偵察装置端末でさえ赤白ファミコンからスーパーファミコンに変わっても、あたしたちはあいかわらず聖徳太子の1万円使ってんだからね。マリ先輩、また博士帽かぶって、どこに向かってしゃべってるんです? いいからサクサク続ける。あたっ、またぁ。
「ぐず。余計なことしてないで、さっさと動きなさい!」
「もぉ、すぐポカポカ殴るぅ」
「へぇぇ、先輩の愛がわからないってゆーのね?」
「あ、はい、とってもよくわかりますです、はい」
「なら、言われたとおりテキパキする!」
「はいはい」
「返事は一度」
「ふああい」
「とにかく、ブドウ糖くらいならカンタンに作れるから」
「レーズンもワインもないですよ?」
「そのブドウぢゃないっっ!!」
 そのクラゲ頭、ブドウ状にしちゃる!! うわあ、わけわかんないけど、ごめんなさぁい。
 化学薬品をズラリとならべた机のまわりで追いかけっこして、よく事故にならなかったと、あとでふたりは回想することになる。
「ち、逃げ足、だけは、速い、わね」
「先輩と、ちがって、鍛えて、ます、から」
 水泳部のホープをなめるなよ、ぶい。めりはりない肉体にはもってこいだわね。たいしてでかくもないひとに言われたくないですぅ。あんですってぇ!! なんでもありませんっ!「ま、いいわ。もう“明日”なんだからね」
「はい」
「今日中にリエに原料を渡さないと、間に合わないんだから」
「分かってます」
「いい、すべては“甘み”にかかってるんだからね」
「分かってますって」
「乙女のせつない恋心を、純粋無垢な願いを、カガクのチカラで実体化させるのよ!!」
 マリの実験メガネがきらりん、と光る。
 ずぇったいマリ先輩は白衣に酔っている、とアリサは思った。
「じゃ、まずは硫酸うすめて頂戴。モル濃度で5%」
「へ?」
「あー、その分量だと1000mlちょうど」
「水道水じゃなくて、そっちのポリ容器の純水…こら、純水容器を水鉄砲にしない」
 お約束なことして遊んでるんじゃないの。だって、この形と手触りがピュピュッとしてくれって。んもぉ、ほんとに大丈夫かなぁ、こんな助手で。大丈夫です、お塩つくる実験ならやったことあります、お砂糖くらい、へいちゃらです。そうそう、ちゃんとメスシリンダーで測ってね、ビーカーの目盛りはアテになんないんだから。えへへ、こんなのカンタンカ…。
「あ、バカッ!!」
 アリサは硫酸のビーカー“に”、蒸留水“を”注ぎ込んだ!!
 
 教員室というところは、誰だってあんまり出入りしたくないものだ。
「ご迷惑おかけしました」「失礼しまぁす」
 しおしおなマリとしおしおなアリサ。無理もない。お昼休みはお小言のつづきで潰れてしまったのだから。
 ラッキーなことに、昨晩の夜間責任者は“シッダールータ”だった。インドから来た、というだけで彼女についた名前ではない。文字通り、仏様、なのだ。
 さいさいケガも失火もありませんでしたし、わたしのほうからよく言って聞かせますから、とイギリス系なのか南方系なのか不明な、大きな黒目の美人に言われては。いきりたつ学生寮舎監兼生活指導の“ストーンヘッド”も退却するしかなかった。
 就寝時間に、いてはならない学舎内で爆発さわぎを起こし、窓ガラスを2枚割った。その代価が始末書と礼拝堂の便所掃除1ケ月。まさに“仏”である。
 マリ先輩、ここミッション系ですよね。いいのよアリサ、教員のあだ名なんてそんなもんよ。どうして“マザーテレサ”じゃないんです? 伝統にケチつけたってしょうがないでしょーが。はぁ。
 だれもが歩いている廊下で、ひとりだけ立っている者がいる。
 ミドリだ。
「な、なによ」
「出所迎え」
「のわにぃ!!」
 ちぉっとぉ、もうケンカはやめてくださいよぉ。
 アリサがマリのスカートをひっぱったため、マリの攻撃はミドリまで届かない。アリサが止めるのを見越しているのか、ミドリは空を切った平手を鼻でせせら笑う。
「助かったのは事実だから、お礼くらい言うわね」
「助けたつもりはないわ。学生会のデスクワーク、あんたの分もやりたくなかっただけ」
 処分が軽微に済んだのは、ミドリの尽力が大きかった。
「向学心旺盛な後輩のため、実験室を無断使用した」だけで黒を白にしてしまったのだから。しかし、いくら立て板に水ぶっかけただけで押し流せるものだろうか? 一部教員の弱みを握っているというウワサは、あながちデマでもないのかもしれない。
「文系のあんたが、あーゆーマネするとは思わなかったね」
「文系だって、ブドウ糖くらい作れるわよ」
「失敗したくせに」
 ふふん、とミドリがまた鼻でせせら笑う。
「なによ。またヤル気?」
 ミドリはすぐには返してこなかった。
「…。ちょっと、顔かして」
「…ん」
 どうしてこいつは、奥歯にモノがはさまると、こーゆー一昔前のスケバンみたいな言い方になるんだろう、とマリは思う。額面おどりに言葉を受け取ったアリサが、びびって退いている。
 せんぱぁい、そろそろ午後の授業…。あたしは休講。あ、あたしも休講だから。ずるぅい、ミドリ先輩もマリ先輩もウソばっかりぃ。
「アリサちゃん」
「な、なんでしょお」
「硫酸を薄めるときはね、水の中“に”硫酸“を”入れるの!!」
 でこピン! ミドリはアリサの額を指ではじく。
「“向学心旺盛”なんでしょ。せいぜいお勉強してらっしゃい」
 ちぇっ。いーっ、だ。
 大義名分をかざされては、文句も言えない。アリサだけが廊下に置き去りにされた。
 
 礼拝堂には誰もいない。
 普通の学校では講堂と呼ばれる建物だ。ステンドグラスと大きな聖マリア像。つまり、神聖にして厳粛な場所である。ゆえに、ミサのとき以外は立入禁止となっている。だから、いろいろと利用される。
 いろいろと。
 ミドリぃ、放課後、決闘広場じゃなかったの? やーよ、あたしあんな宝塚(ヅカ)な格好すんの。あたし花嫁ね、だからあんたが命を賭して戦ってね。やなこった。いいじゃん、少しくらい。だめ。けちぃ。ま、決着はいずれ別の方法でつけましょう。望むところよ。
「あんたたちホントに悪運強いわね。白衣と制服、焦がしてひっちゃぶいただけなんて」「あ、あたりまえじゃない。日頃のおこないがいいもんっ!」 
 翻訳。
 よかった、ケガなくて。
 まあね、心配してくれてありがと。
 おたがい素直になれない。
「リエはどうしたの? 欠席だったけど」
「ご想像どおり、ショックで寝てる」
 マリとリエは寮の同室だ。リエを“独占”していた先代の生徒会長が卒業した後、もともとのルームメイトであるマリと同室になった。ミドリに対して現在マリが持つアドバンテージのひとつである。したがって、その分の責務を果たしていない、という圧力をつねにミドリから受けることになる。
 ついっ、とミドリがマリに迫る。
「な、なによ」
 退くマリよりミドリが速い。
 殴られた、と思ったマリが、おそるおそる目を開けると。
 マリの目前にぶらさがっている、黒い袋と白い袋。
 近すぎる物体に焦点が合うと、中身は白砂糖と板チョコだと分かる。食品ではない。食材だ。湯煎した鍋で溶かして、好きな形を作りましょう、というヤツ。
「?」
 ぺたぺた、と間抜け顔したマリの頬に、叩き付けられる。
「カカオには脂肪酸を制御する作用があってね。脳細胞を活性化させるのにもいいんだって」
 あんたいつも授業さぼってるけど、みのもんたの昼番組見てるの? まさか、ためしてガッテンの再放送よ。どうしてウルトラアイじゃないの? さあ。なんで今やってない番組、学生会室で見れるかなぁ。さあ、なんでかしらね。便利ね、この博士帽。そうね。
「?」
「ほんと血の巡りが悪いわね。あんたのおバカな脳味噌にくれてやるって言ってるの」
「…それは、…どーも」
 いちいち角が立つ物言いは、いまに始まったことではない。どういうとき、それがエスカレートするのか。分かってるから、マリはガマンする。
「あたしだってチョコレートくらい、食べたくなるときがあるわ」
 聞いてないのに。勝手にミドリがしゃべる。
「わざわざ作って? 横着者のあんたが?」
「そうよ」
 普段無口なミドリが饒舌になるのは、顔赤くして目そらしてしゃべるときが多い。
「…くれるっていうなら、もらっとく」
 ありがとうと素直に言えないマリだった。
「返せったって返さないんだから。ぜんぶあたしひとりで食べちゃうんだから」
「…。好きにしな」
「ん、そーする」
「何よ。まだ何か欲しいの?」
「べつに。お礼がしたいだけ」
 マリはすばやくミドリの右頬にキスする。
 油断とはいえ奪われて、憮然としてミドリは言い返す。
「あんたこのごろナマイキだわ」
「しつけが足んないんじゃない?」
「しつけてほしいわけ?」
「べつに。次の時間までヒマなだけ」
「あたしは忙しいんだけど」
「同じクラスのあたしがヒマなんだから、あんたもヒマよね」
 論破されて、ミドリは沈黙した。
「お礼くらい、素直に受け取るべきだわ」
 気持ちをまっすぐ相手にぶつけるところは、マリも彼女もまったく同じである。
 それはミドリがもっともニガテとする行為だった。
 礼拝堂は、ミサのとき以外、立入禁止である。
 マリア像だけが、ふたりを見下ろしていた。
 
 2月14日。
 その日、彼女は子犬に追われる猫となる。
 自分で撒いた種、ということはミドリにも分かっている。つい先日、フェンシングの大会で目立つ真似をしたばかりだ。何も考えてない娘たちも、考えすぎて思い詰めている娘たちも。手に手に“気持ち”をかかえて押し寄せてくるのは確実だ。
 面倒なことはパスするに限る。成績もスポーツも、注目されないように、しかし各種推薦を得られる程度にはごまかす。そうやって、この醜悪な世間様と距離を保って生きてきた。
 距離を保たねばならない理由の前に、何物にも束縛されない自由こそが、ミドリの愛する日常だ。日常だった。それが、どうしたことだ。このごろは。
 べつに、醜悪な形態をした金色の物体が欲しかったわけではない。ただ、彼女の笑顔が曇るのがヤだった。だから、引き受けた。彼女のために、全力を尽くした。それだけだ。
 どうして欲しいモノは手にはいらず、いらないモノばかり増えてゆくのだろう。
 欲しいモノは、ただひとつだけ、なのに。
 こういうとき、体育館裏のマキの大樹は、たいへん有り難い。
 日没後の外出禁止になるまで避難できればいい。そういうつもりでミドリは枝に身を預けている。少々寒いが、うるさいよりははるかにいい。こんなところでひもとくディキンズも悪くない。
 6限は15時ちょうどに終わる。放課後を告げる鐘を聞いて、もう少々のがまんに覚悟を決めたとき。あっさりとがまんする必要はなくなってしまった。
「ミドリ、そこにいるの、ミドリでしょう。返事して」
 それは、いちばん見つかりたくない相手の声だった。
「あたしよ、リエよ。降りてきてよ」
 それがイヤだから、この季節に樹に登っているのだが。
「来ないんだったら、こっちから行くからね」
 それは無理だ。
 蹴上がりもできない運動音痴(うんち)には、ここへは来れない。
 案の定、いちばん下の枝にぶらさがったまま、うんうん言っている。
 どうせここには来れないのだ。無視を決め込んだそのとき。
「あたっ」
 手を離したリエは当然、枝から落ちる。はずみでよろけて、しりもちをつく。
 あのバカ。
 棘でも刺したか、手の皮でも剥いたに違いない。
 くるくるっ、と段違平行棒を降りる運動選手のように、ミドリは枝4本分を一気に降りて着地する。
 10.00。いや、べつにポーズをとったりはしていないが、見事な着地だ。そして、新体操の棍棒演技のように、そっちを見ることなく、後から落ちてきた洋書を背面で受け止める。
「ほら、見せてみ」
 あまりの迅さに驚いたリエは、胸元に手をひっこめて凍っている。それを、手首でひっつかんでひきのばし、両掌を開かせる。
 白魚のような指。薄い掌。箸より重い物を持ったら壊れそうなそれは、少々汚れてはいるが、大事ない。それは、黒と白のキーのうえで芸術を紡ぎ出す装置。そして、ミドリやマリ以外の誰かさんのための装置。
 リエがムリヤリ手を引っ込めたのは、いつまでもミドリが握って離さないからだ。寒風にさらされて顔が赤いわけではない。
「…その、ごめんなさい。なんともない、の」
 よほどミドリがぶすっとして見えたのか、リエがおずおずと謝る。
 本当のところは、ミドリは驚いていたのだ。この娘にそーゆー知恵があるとは思えなかったので。
「良かったわね」
「本当にごめんなさい。その、怒らないで」
「べつに怒ってないわ。あんたが謝る必要ないじゃない。あたしは降りてきたくなったから降りただけ。あんたは関係ないわ。で、何の用?」
「…あの、その、渡したい物があるの」
「何?」
 何かは見当ついているのだが。一応ミドリは聞いてみる。
 おずおずとリエが差し出したのは、かわいい萌葱色の包みだ。
「チョコなの」
「そ。じゃ」
 くるりと背を向けたミドリに、リエが慌てて言う。
「あ、待って」
 そのまま立ち去ってもいいのだが、しつこく追いかけてくるのが分かっているので、ミドリは立ち止まる。
 振り返らずにミドリは言う。
「義理ならいらないって、大昔、言ったよね」
 去年も、ミドリはリエからチョコを受け取るのを手ひどく拒絶している。
 一瞬、殴られるものと身構えたリエだが、ミドリは何もしない。
 防御を解いて、ちいさな、しかしきっぱりとリエは言った。
「ね、ミドリ。勘違いしないで。これ、あげるんじゃないの」
「?」
 おもわず振り向いたミドリには、リエの微笑みが不敵な余裕に見えた。
「これ、返すの」
「? あたしはあんたにチョコなんてあげてないわよ」
「マリが板チョコくれたんだけど、ほんとはミドリがマリにあげたんでしょ」
「何のこと?」
「マリが持ってるはずないもの。ミドリがマリにあげたんでしょ」
 断定口調である。
 不毛な押し問答をしてもしょうがないので、ミドリは否定しなかった。
「証拠でもあるの」
「ないわ。マリは何も言わなかったし。でも分かるの。これはミドリのでしょ」
 論理ではなく感性にしたがって行動するあたり、リエは本物の芸術家なのかもしれない。
 にっこり笑って、萌葱色の包みをミドリに押しつける。
「あげるんじゃないの。もとの持ち主に返すの。だから受け取ってね」
「…そういうことなら、しょうがないわね」
 誰の入れ知恵だろう。ミドリはリエの背後を睨む。
 植え込みの陰から黄緑色の制服のスカートがはみ出ているのが、あわてて引っ込むのが見えた。こんどは、頭をかいているのであろう腕の肘が、のぞく。
「…しょうがないわね。返してもらっておくわ」
 そう。回り回って返ってきただけなのだ。
 さすがに3人がかりならば、負けてやってもいいだろう。
 かくれんぼの下手な娘には、口にクッキーをしこたま押し込んでやろう。入れ知恵した誰かさんには、どうしようか。やっぱ、しつけが足らないようだ。
 具体的なことは、チョコを食べてから考えようとミドリは思った。
 
 2月14日。
 その日、彼女はコタツで丸くなる猫となった。
 板チョコのままかじるのとは違って、ハート型のチョコは甘かった。
    −了−    

あとがき

 読了ありがとうございます。
 即売会「WORDS」のファイナルに合わせて(02年現在は「ぶんぶん」に継承)、気合い入れて書きました。で、いつもの倍に膨れてる。
 とくに下敷きはないです。年中行事というか、歳時記もの、というか。
 
 アリサの投入は、意見の分かれるところです。しかし、富本起矢がPart6で投入を予定していた“かすみちゃん”なる新キャラもいたことですし(絵コンテ集より)。後輩がひとりいると、ミドリの負荷が激減するんで、書きやすくなるし。で、わたしはアリサの使用は容認しています。Part16がまったくの平行世界譚だということは、他で書いているとおりです。分かってて、やってます。
(白状すれば、これ書いてた時点では、アリサのことでぇきれぇで、Part16は焚書! とか本気で思ってました。それが「東京ミュウミュウ」の歩鈴&れたすを見たあとでは、アリサ容認さらには積極仕様に転向! 変われば変わるものです)
 
 そうそう。アリサがイチゴショートに執着して、2度まわりこんで背景どどんぱっ! というのは。Part4ネオ・カンサス市の“酒屋”のマスターがやったアレです。…通じた?
「リエちゃん泣かせた」は、「マコちゃん泣かせた」@「guguガンモ」…どこから神経発火が来るのやら。
 マリがアタマ良すぎ、と指摘されました。ここでは連中は高校生です。フィルムコミックスでは中学生になってるけど。それでも、良すぎ? 次回作では反動で赤点娘です。
 ご感想などいただけると、うれしいです。