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 チベットにて 山本文渓 平成19年9月11日〜
写真は松戸市五十嵐氏のを借用させていただいた

 大学の学生時代の卒論にサンスクリット文とチベット文の翻訳を行った。チベット語を習ったとはいえ昔の経典を読むのであって、字は読めても会話が出来るわけではない。 しかしそれ以来チベットには大変興味を持っていた。大学生当時は中国とは国交がなく、チベット行きをあきらめていたがようやく期が熟してきた。
 平成19年9月にとうとう念願が叶った。しかし旅行ガイドブックを読むにつれて不安なことが起きてきた。高山病である。ネットで調べると、低酸素室で高山と同じ条件を体験できるところがあった。仲間はそこへ行くと言うが私は行かなかった。薬があるというのでそれを手に入れることにした。ダイアマックスという薬の処方箋を医者に書いてもらったが、医者はこの薬はリュウマチに効く薬だけれどもちょっと調べてみると言った。すると「書いてあるよ高山病の予防薬らしい、」と先生も知らなかったようだ。出発前から毎日飲んでおればいいとのこと。それと水にとかす酸素も持参した。

 9月11日午後1時50分、成田より中国東方航空MU524便、上海行きに搭乗する。機内はほぼ満員状態である。現地時間4時前に上海に到着。蒸し暑くどんよりとしたスモッグであろうか、そんな空模様である。上海でうまいラーメン店へ行く約束をしたが、行けなかった。同年2月に上海へ来たときには、外国線より国内線に移るとき国内線の空港へ移動したが、今回は移動なしでそのまま国内線に乗れるようになっていた。国内線の虹橋空港の一階に豚骨ラーメンを食べてきたので今回食べられず残念。上海で国内線に乗り換え18時10分西安経由西寧まで飛んだ。西寧に着いたらすでに夜中になっていた。西寧金龍酒店919室へ入る。外は雨が降っており15度と寒い。

 9月12日、市内寺院の見学だが氷雨でとても寒い。手がかじかむ。9月というのにここ青海省西寧は、海抜2200メートルの高地であり、昨日は雪が降ったと青海湖へ行った日本人観光客から聞いた。この方々は今日ラサへ向うらしいがかなり年配のグループに見えた。かなり寒さを感じる2,3度であろうか。用意していたゴアテックスのダウンジャケットが役に立った。10時に出発して30キロ離れたチベット仏教では最大のタール寺へ行く。タールは塔尓という字が当ててあった。土産物屋の前を通り過ぎてお寺の中へ入る。道はぬかるんでいて歩きにくい。境内はかなり広くお坊さん専用の寺内タクシーが走っている。安く利用できるそうだ。お坊さんもこんなに観光客が来て迷惑だろうと思ったが、受付から切符のもぎ取りまで皆お坊さんがしているので、結構稼ぎに成るのだろう。早々に切り上げて昼食の場所へ移動した。午後には晴れてきたら気温が上がり半袖シャツで十分であった。寒暖の差が激しい。街の中心街の広場に博物館がある。その前の広場では高校生による軍事訓練が行われていた。人が集まる広場で行われるのも中国らしい。体験入隊のようで、女子高生には笑顔が見えた。博物館は商品の展示会場も兼ねており、チベット絨毯の歴史を見る。7人で市場へ行った。食料品、衣料品がたくさん出ている。のどが渇いたので皆でお茶にするため店に入ったが言葉が通じない。筆談でようやく土瓶に入ったお茶が30元であることが分かり、お茶にありつけた。その夕方に西寧駅へ向かった。

タール寺   塔群

 ← タール寺中庭

市場にて →

 青蔵鉄道

 駅の待合室ではヨーロッパ人が多く待っているが、そこへ割り込んだ。皆ラサ行きの列車に乗るのだろう。ドイツ人と話が出来た。ライプチッヒの近くからのようだ。中国に3週間滞在と言うのでかなり長い期間の旅行だ。晩8時20分にいよいよ出発した。これから26時間の汽車の旅である。軟?車なので快適だ。列車は前に機関車と発電用の車両が2両付く。客車はカノ有名なカナダのボンバルディア社と合弁で作られた列車である。飛行機と同じく気密が保たれており、また高地を通過するので酸素吸入装置が各部屋に用意されている。従って車内は禁煙である。我々の部屋は四人のコンパートメントであり、最上級の席である。バッグは座席の下や、上階へ収まった。各ベッドの横に酸素吸入のノズルがあり、TVも付いている。かなりのチャンネルが見られるようだが消して、少しお酒を入れて寝ることにした。

西寧駅 青蔵鉄道の列車 車内の様子

西寧発拉薩行きのプレート
 9月13日 夜中に目を覚ました。カーテ ンを開けてびっくり。満点の星空である。天 の川がはっきり見える。天の川を見るのはミ ャンマー以来だ。寝るのを忘れて見ていたら、 あっ流れ星だと上の段から声がした。彼も起 きていたのか。人工の光が全くない処だから なおさら綺麗に見える星空だった。カシオペア座がずーっと付いてくる。
 もう7時5分だよの声で起きることにした。7時半食堂車へ行くと前の団体がまだ食事をしている。少し待つことになった。おかゆが出てきたがトッピングもあり実にうまかった。車窓はチベット高原を時速80キロぐらいで走っている。刻々と変化する海抜と外気温が電光掲示板に表示される。山には一本も木が生えていない。凍土高原で、150メートル地下まで凍っているとか。その軟弱な土地に土台を打って鉄橋を渡して線路が造られている。世界一というのがいくつもある。世界一高い所にある駅。高い所を走る鉄道。高い所にある鉄橋と長さも。トンネルも。まだまだあるそうだ。
 9時頃次の駅の案内が出た。なんと6時間後に11分停車ではないか。日本では考えられない間隔。しかし急にとある駅で止まった。我々のコンパートメントの隣には政府の役人が乗っているようだ。部屋の前には制服の人がいつも立っていた。役人のうちの
 一人がたばこを吸いたくなったらしい。それで列車を止め たようだ 。ほんのわずかだが外の空気を吸った。あまり寒 くはない。外へ出られたのは我々の車両だけのようだ。た ばこを吸い終わったので急いで入るように服務員が手を振 っていた。後から分かったのだが、この駅は通過待ちのた めに停車はするがドアーは開かないはずだが、役人がたば こを吸うために我々の車両だけ開けたようだ。これも中国 たばこを吸うお役人  ならではのことなのだろう。途中玉珠峰(6,178M)を主峰とする魂論山脈が見られ、唐古拉峠(5,072M)タンラ峠を超えたところでVTRを回したらすでに5,030Mに下がっていた。鉄道世界最高地点5072メートルを通過したのだ。アナウンスもなくあっという間に通過した。他の人たちは最高地点の通過に気が付かなかったようだ。外気温は10度と予想していたほど寒くはなさそうだ。外の風景は何時間走っても変わらない。荒涼としたチベット高原が続き、その間にヤクや羊の放牧が見られる。こんな高地でも生活している人がいるのか。那曲というう所で停車したので外へ出た。海抜4,520Mと書かれた看板がある。頭が少しくらくらする。列車の前で写真を撮る。6時30分夕食のために食堂車へ行く。少し鼻血が出ていると仲間から言われて、どうしてだろう。気圧の急な変化かな。言われるまでは気がつかなかった。
 晩12時前ににラサ駅に着いた。駅舎は立派に新築されているようだが、節電でか薄暗く、電光掲示板のみが光っていた。ホテルに向かう途中で、ライトアップされたポタラ宮が見えた。写真だけで見ていたポタラ宮を真近に見えたのは感激だ。ようやくラサに来たのだ。ホテルの玄関では夜中だというのにチベット人による音楽と舞踊お出迎えてくれた。部屋には他では見られない酸素ボンベが2本あった。一人に2本付いているようだ。殺虫剤のスプレー缶を2本つないだような長さだ。上のノズルを押せば酸素が出てくるのだ。それをいつも携帯せよとガイドから言われたが、私は使わないぞと心に決めた。長さが30センチはあろうか、これを持って歩くのでは邪魔になりそうだ。
食堂車にて チベット高原を行く
ヤクの放牧  ラサ駅に到着 ラサのホテル
             
 大昭寺
 9月14日今日も快晴。空の青さがきつい。こんな綺麗な青空は見たことがない。また白い雲もまぶしい。午前中はラサの中心地にあるチベット寺院・大昭寺を参拝。各地から来られるチベット人参拝客で大賑わいだ。門の前では熱心に五体投地をする姿が見られるが、外国人は邪魔をするかのように写真を撮るので、さぞかし迷惑なことだろうと思った。チベット人参拝者はバターオイルの入ったポットを持ち堂内のろうそく立てに注いでお参りをし、あるいは新しい仏像を大事そうに抱えて開眼法要をしてもらうそうである。その為に長い列を作って待っている。我々はその横をすり抜けて中へ入った。中はローソクの煙で煙っている。お賽銭が散らばっているように見える。熱心にお供えをして一心に念仏を唱えている姿には心打たれる。3階のテラスへ出ると視界が開けて遙かにポタラ宮が見える。一人でチベットを旅行していると言う日本人男性に会った。、二人ずれの女性もいた。チベットを個人で旅行するとは驚いた。
 外に出て八角街(バルコル)という巡礼路がある。お寺の周りをぐるぐる経文を唱えマニ車を回しながら歩いている。そこは土産物売り場でもある。大変な賑わいだ。その一角で昼食を取る。この土地の鍋料理だ。一時間ほど自由時間なので外へ出ようとしたら、東江寺さんは頭痛の為ソファーに横になっている。高山病にかかったのか。私は今のところ何ともないのであたりを散策する。ある店でチベット文字でオンマニパドメーフンと書かれたTシャツがあったので買うことにした。そして巡礼者のVTRを撮り、寺の正面へ向かう。午前中は五体投地をする人が多かったが、午後になると暑くなるせいか人が少ない。けれども五体投地をする人はあとをたたない。
大昭寺の入り口 五体投地 売店
大昭寺よりポタラ宮を望む バルコルにて
バルコルにて ポタラ宮  
この羊も巡礼中の食料に なってしまうそうだ   購入したTシャツ ポタラ宮の登り口

どこでも子供たちは屈託がない
出口よりの眺め
 昼食後2時、いよいよポタラ宮を目指す。「海抜3600メートルのラサですからゆっくり歩いて下さいよ、」と注意を受ける。ポタラ宮は山の中とばかり思っていたが、ガイドに聞くと、前の広場には池がありチベット人も暮らしていたが退去させられて、今は北京の天安門前広場なみの広場になっている。ポタラ宮の前がこんなに車の往来が激しいとは思わなかった。信号もない幅の広い道路を命がけで渡る。渡っていても車は止まってくれないからだ。ポタラ宮の土台は石で出来ておりその上は木造である。こんな高地でどうやって沢山の材木を集めたのだろうか。内部はお寺と法王の住まい、僧の住まい、そして代々の法王のお墓がある。写真撮影は出来ないし、中は薄暗くよく気をつけて歩かないと壁とかにぶつかりそうになる。裏門より外へ出ると信者さんから奉納された五色の旗や経文が書かれた旗がはためいている。外へ出ると日差しは強いしとにかくのどが渇く。水は常に飲まなくてはいけない。日に4リットルは飲めとガイドブックには書いてある。下まで降りたら僧がお布施をもらうために手を出している。物乞いかと思った。

 ラサではセラ・ゴンパ寺へ行った。明治時代にチベットへ密入国した河口慧海師が勉強した所である。ほかにノルブリンカへ行った。ここはダライラマの夏の離宮で花が沢山咲いており、離宮らしい雰囲気だ。現在のダライ・ラマ14世が50年前にインドへ亡命するまではここで生活をしていた。洋式のトイレや風呂、そしてインド製のラジオが残されていた。中央に大きな時計がある。ダライ・ラマが亡命したときの時間で止まっているという。
 夕食はチベット民族舞踊を見ながらの食事だ。早く行けたので前の方の良い席が得られた。欧米人や日本人が多いが中国人は我々の前に出てきて写真を撮り続け、後ろのことはお構いなしだ。仲間はビールを飲み出したが、高地だから気をつけるように言われているのに、彼らは酒に強いから大丈夫なのか。

ダライラマ夏の離宮 セラ寺       セラ寺の内部 カメラは30元ビデオは850元を払う
  セラ寺  
ヤムドク湖を望む峠より
トイレ休憩の時見た6000Mクラスの山
シガツエ飯店

9月15日、7時朝食、8時半バッグを出して、9時ホテルを出発。セラ寺へ行く。河口慧海や多田等観らが勉強した所だ。850元(約1万2千円)を払って内部のVTR撮影する。カメラは30元なのにものすごく高い。彼らの一ヶ月の生活費に当たるのではないかと思ってしまう。内部は暗くてそんなに思うようには撮せない。外では塔の周りを念仏を唱えながらうるぐる回っている一団があった。ここから遙か遠方にポタラ宮が見える。相変わらず日差しはきついしのどが渇く。

シガツエ
 シガツエに向かう途中、ラサ湖を左に見て曲水で昼食。欧米人も来るところなのに、便所は汚い。それでもポタラ宮よりはましのようだ。川で取れた魚料理がでた。とても辛い。裏へ回ると食器を洗っている。一つのたらいで洗い、もう一つでたらいでゆすいでいる。これを見てしまうと我々の使う皿をぬれティシュで拭くのも分かる気がする。箸には消毒済みと印刷されてはいるが、色が異なる箸が2本入っている。一度や二度と使った形跡があるようだ。
 午後2時ヤムドク湖を望む峠に着く。海抜4,260Mである。途中道路工事があって30分ほど止まった。止まらなければ雨に会わなかったろうに、小雨が降ってきた。遙か遠くには氷河の山が見える。湖水は左右に細長く異なる色が見られる。高源さんがとらやの羊羹を切ってくれた。日本にいるときは羊羹はめったに口にしないが、こんな所で食  ラサを離れて西約280キロに位置するシガツエに入る。ここは標高3900メートルありチベット第二の都市である。ホテルの近くのレストランで夕食。ここもトイレが汚い。シガツエ飯店ホテルの421室に入る。午後9時頃出て近くのマーケットを覗く。多くの人が夕食中だ。星がものすごく近くに見える。見えすぎて星座が分からない。カシオペアは分かるが北極星があるあたりにも沢山の星で、見つかられない。

9月16日、シガツエ市街区の西に位置するタシルン ポ寺がある。霊廟が二カ所ありきらびやかで美しい寺だ。昔は4500人もの僧侶がいたというが、今も1000人近くの僧が生活している。僧侶が作ったのかお守りが売られていた。商売しているのだろうか?。その後パンチェンラマの夏の離宮、デチェンケルサンポタンへ行く。今日も日差しがきつい。昼食をしてホテルに1時半着く。 ナルタン寺(ナルタン判の大蔵経の版木が納められていた寺だが、文革で全部破壊されてしまった)へ行きたくて添乗員をとおしてガイドに聞いてもらったら、現地のガイドは知らないし行ったことがない。また外国人証明証も必要とのこと、かなり遠いのであきらめた。午後は休息。3時に町中を歩いていたらなにやら光る物が遠くに見えた。なんと太陽熱による湯沸かし器であった。この湯沸かし器が置かれている前の店に入り、誰がどのようにして作ったのか聞こうとしたが言葉が通じない悲しさ。分からないのでその店で線香を買って出てきた。中国とは隣の国同士だが、言葉が通じない。ヨーロッパでしたら隣の国の言葉ぐらい話せなくても聞いては分かるようだが、我々はそうはいかないのが残念である。

タシルンポ寺 僧と子供
お守りを買うので交渉中

左がお守り

右は買う羽目になったペンダント
太陽光利用の湯沸かし器、手作りだ。
天気がいいので早く沸くことと思う

道中での出来事
 シガツエからギャンツエに向かうとき、チェックポイントがあった。時間を記した切符を運転手が受け取った所でガイドから説明があった。次のチェックポイントまでの時間が今から40分より早ければ罰金が取られるとのこと。実はこの区間は事故が多いのでスピードを上げないようにこんな処置をとるらしい。かなりのスピードで走ってそこで止まったのでトイレ休憩と思ったら、早く着きそうなので少しここで休みますとガイドは言う。このまま行くと必ず罰金ですよとおかしな時間調整である。近くを歩いていたら青年がいた。英語が分かるか聞いてみたら英語で返事があった。チベットのこんな山の中で英語を話す人がいるのには驚いた。すると自分がしているネックレスを買わないかと言い出した。昆虫の化石で出来ていれば1万円以上はする物である。ラサで見ているので知っていた。旅行の仲間に古物商がいて彼が見たらこれはガラスだよ、と言った。青年は500元(約7500円)と言う。青年は本物だよ言わんばかりにふっかけてきた。私は買うつもりはないので、50元と言った。すると400元になり、300元になり、とうとう100元になったが私は50元を言い続けた。すると70元まで下がった。もういいよと離れようとしたら、いくら? と彼は言うので 50元だよ。と私が言ったら、OK50元で良いと言った。買うつもりはなかったが仕方なく買う羽目になってしまった。

 
 ギャンツエ市内にて



              ギャンツエ飯店
ギャンツエ古城
 シガツエを離れて西南約100キロの所にギャンツエがある。標高3950メートルで、日本では体験出来ない高さだ。朝早く外へ出てみたらオリオン星座が綺麗に見えていた。9月なのに冬の星座が見られた。しばらく眺めていると夜が明けてきた。気温は8度とホテルのロビーに書いてあった。
 仲間3人で出かけて白居寺から見えたギャンツエ古城に登ることに意見が一致した。遙か見上げる高さだ。ここを登れば4000メートルに達するだろう。私にとって最高点に成る。以前、パキスタンからカラコルムハイウエーを通って、クンジュラブ峠を越えて中国へ入った事がある。この峠の標高は4634メートルはあった。バスでここまで登っているが、今回は歩いて4000メートルまで行くので初めてのことになる。ギャンツエ古城は14世紀に出来た城で、1903年イギリス軍の進入によって弾薬もつきたチベット軍は3ケ月で敗退、中腹に砲台や防護施設が残っているとガイドブックに書いてある。門の入り口に突然青年が現れ入場料は30元と言う。20元に値切って入ったが、ガイドブックには30元と書いてあると友人が言ってくれたが、そのまま入る。正式な切符ではなさそうで、メモ用紙に書いてある感じである。入るといきなり急な階段にぶつかる。息を切らしながら、休みながら登る。途中に牢屋があった。中をのぞくと作られた人間のクビだけが石の上のおいてある。不気味だ。処刑するところなのか。ようやくてっぺんまで登った。こんな所には誰も観光客はいないだろうと思ったら、西洋人が4人いた。聞いてみたらドイツのフランクフルトから3時間奥に入ったところから来たと言う。カメラはニコン。ライカは使わないのか聞いたら、ライカは高いしニコンの方が安くて品質がいいと言ってくれた。ビデオもビクター製で日本製を使っているとは嬉しいことである。遠くには雪を頂く山が見える。もう再度来ることはないだろうと足を踏みしめて4000メートルの高地を楽しんだ。

市場を見た帰りに二人ずつ人力車に乗りホテルへ向かう

ホテルノロビー
旧豪族の住まい
中は大変豪華な作りだ

一階には奴隷が働く部屋と台所がある 麻雀をしている所の人形       居室 奥方の衣装室には未だ沢山の衣服が残っている
 旧豪族の主人の仏壇
 奥方のは別にある



        白居寺 空の青さが違う
白居寺のチョギャンツエルテン ギャンツエ市内にて

   左:古城を望む

   中:古城に上るところ

   右:最上層にあるチョルテン
 
 ツールドフランス
 ギャンツエを立つ朝、ホテルの前に大勢の西洋人がいるので出てみた。各々自転車を整備している。聞いてみたらラサからネパールのカトマンズまで自転車で行くというのだ。途中には4500メートルもの峠もあるという。一行はヨーロッパから5,6カ国15人の混成チームで女性もおり、ツールドフランスに参加するためのトレーニングと聞いた。早々に出発して行った。全員の荷物が載っているトラックが一台、そこにガイドが乗り後をつけて行った。 出た後はアメリカ人のグループがあった。こちらはトヨタのランドクルーザー10台に分乗して山を目指すようだ。アメリカ人はランクルで移動、ヨーロッパ人は自転車で移動だ。トヨタのランクルはチベットではよく見かけたが、高地と荒れ地には強いのだろう。 帰国にあたって
 西蔵鉄道の開通によってラサへは容易に行けるようになった。それで中国人も多くやって来て商売が成り立っている。これらは皆中国資本によるチベットでの経済活動である。ラサでは今まで慎ましやかに生活していたチベット人が中国資本によって移住させられ、そこには立派なホテルが出来上がる。ホテルの玄関で、出迎え時に行われる音楽や舞踊はチベット人が行うが、中で働く人は皆中国人。商店も中心地区はほとんど中国人が占めているようだ。商店の看板も中国語が真ん中に大きく書かれており、チベット文字は上に小さく書かれている。子供たちは中国語で授業が行われ、チベット語やチベット文化は教えてもらえないとのこと。お金があればインドにある亡命政府の方へ送って、チベット語と文化を学ぶらしい。チベット仏教も、ダライ・ラマ14世がインドへ亡命してから、ダライ・ラマ15世を決めたがその後どこへ行ったのか行方不明となっている。中国政府がパンチェン・ラマ11世をチベット仏教教会抜きで決めており、今は17歳なので北京で勉強中とのこと。いずれはラサに帰ってくるらしい。チベット仏教まで中国政府に牛耳られている状態である。昨年の北京オリンピックの聖火リレーの時、「フリーチベット・チベットに自由を」というスローガンがよく見られた。中国政府は、チベットも中国の一部だから支配したい。事実手つかずの地下資源が沢山あるから何とか独立を阻止したいのだ。チベット人は自由が欲しい。自治権が欲しいのであって、独立は望んでいないと思う。これからどうなるのか我々も気が抜けないチベット情勢である。

新装なったラサ空港 ここから西安へ飛び帰国する
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