開基宋雲院殿は斉藤兵部少輔鎮実の妹、高僑主膳兵衝鎮種公の室である。鎮種は豊後国東郡筧城吉弘鑑理の次男で、のち高橋家を襲ぎ、入道して紹運と称した。長子は戸次鑑連(道雪)の養子立花宗茂で、筧城に出生し、朝鮮征伐に大功を建て、柳河藩主として有名であった。次子を貞次といい、旧三池藩立花家はこの人の子孫である。紹運は薩摩勢の攻撃を受けて、天正十四年七月二十七日将士と共に岩屋城に戦死、武士道の権化とうたわれた。法号を天叟寺殿性海紹運大居士という。夫人は薩摩勢に捕えられ肥後の国北関に幽閉されたが、秀吉が薩摩を攻めるに及んで無事帰還した。その後徳川時代に至り、江戸藩邸において逝去した。
宗茂はつとに州甫和尚に帰依していたので和尚を開祖に、その実母菩提のため香華所として建てたのが当院である。下谷の広徳寺墓域内の開基の遺骨は、大正十四年十二月二十三日天叟寺(柳川市鍛冶屋町)に合葬、三百年を経て夫妻同穴の縁を完うすることができた。
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