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 宋雲院の歴史 開祖  前大徳州甫和尚大禅師(広徳寺3世)
開基  宋雲院殿華岳紹春大姉(立花飛騨守宗茂公実母)慶長16年(1611)4月27日卒
 開基宋雲院殿は斉藤兵部少輔鎮実の妹、高僑主膳兵衝鎮種公の室である。鎮種は豊後国東郡筧城吉弘鑑理の次男で、のち高橋家を襲ぎ、入道して紹運と称した。長子は戸次鑑連(道雪)の養子立花宗茂で、筧城に出生し、朝鮮征伐に大功を建て、柳河藩主として有名であった。次子を貞次といい、旧三池藩立花家はこの人の子孫である。紹運は薩摩勢の攻撃を受けて、天正十四年七月二十七日将士と共に岩屋城に戦死、武士道の権化とうたわれた。法号を天叟寺殿性海紹運大居士という。夫人は薩摩勢に捕えられ肥後の国北関に幽閉されたが、秀吉が薩摩を攻めるに及んで無事帰還した。その後徳川時代に至り、江戸藩邸において逝去した。
 宗茂はつとに州甫和尚に帰依していたので和尚を開祖に、その実母菩提のため香華所として建てたのが当院である。下谷の広徳寺墓域内の開基の遺骨は、大正十四年十二月二十三日天叟寺(柳川市鍛冶屋町)に合葬、三百年を経て夫妻同穴の縁を完うすることができた。
  宋雲院山門
 当院は記録の焼失によって、開祖以後の世代の名を明らかにしないため、安住和尚はかりに十世を名のったので、龍瑞・観嶺・禅登和尚を経て当代で十四世となる。然しその間住持したと思える人として、雲巌・明道・刺山・禹岳・心月・泰道・旋叟・恭堂・月丘和尚と、持峰・劫外・丘岳禅師を挙げることができる。そのうち明道和尚には詩偈集があり、心月和尚には『心月軒稿』一巻がある。維新の変革に際して鏡智院住職であった安住和尚は当院に移って鏡智院を併合した。震災までの本堂は安住和尚、書院は恭堂和尚の建立になり、庫裡及び立花家の霊牌堂等、伽藍は比較的に整っていたといえる。
   龍瑞和尚が本坊出世の後、席を継いだ法弟観嶺和尚は絵画に巧みで、涅槃像の大幅が馬橋万満寺及び金沢市栄昌庵(曹洞宗、ここには他に九谷焼三つ具足の山水図もある)に襲蔵されている。当院の所蔵品は大震火災によって一切失われ、天現寺寄贈による一幅を有するのみである。大正七年暮観嶺和尚遷化後、昭和七年まで、龍瑞和尚が兼務、区画整理によって境内が上野警察署敷地となったので現地に移転、本坊の旧堂を引いて本堂とし、庫裡と門とを新築して復興することができた。然るに昭和二十年の強制疎開によって諸堂宇一切破却の厄にあった。先住・禅登和尚は昭和三十四年に本堂を完成、四十二年には庫裡および書院を完成させた。尚、本尊様が知恵の虚空蔵様なので、丑寅歳の人の参詣がある。

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